ハンター本部内に作られた、バー。
そこは六人も入れば詰まってしまうほどにせまく、明かりはランプで、BGMもない。ダーツも、ビリヤード台も、もちろん無い。なら、飲み物の種類は豊富かというと・・・、棚に九種の酒、冷蔵庫に二種のジュースがあるだけだ。
つまらないことでケチケチする、ハンター組織を形容するようなバーだった。
こんなところには誰も集まらないし、知っている者すら少ない。けれど、それでもやって来る客はまれにいる。
たとえば、彼女だ。
夜、そのバーにやって来た藤美珊瑚は席の最奥に陣取って、ウィスキーを傾けた。それから、ほおづえをついて、水滴が付いたグラスに指を這わせた。そして、無駄に過ぎていく夜の時間を指折り数える。
そんなことをしていたから、気付くのが遅れたらしい。
いつの間にやら、客が来ていた。このバーに、二人の客。それはとても珍しいことだった。
客は扉付近の席に座っている。ここから最も離れた席。
見れば、見知らぬ子供だった。
黒いワンピースを着た、ショートカットの少女。
彼女はおどおどするわけでなく、クールも気取らず、当然のようにアップルジュースを注文した。ほどなくグラスが届いて、彼女はそれに口を付けた。
「ねえ」
珊瑚は、何となく声をかけてみた。
「はい?」
少女は小首をかしげて、こっちを見た。
「あなた、ここの常連さん?」
そう訊ねたのは確認のためだった。ここには、常連の数だけしか飲み物がそろっていない。すぐにグラスが出されたのなら、それが常連の証だった。
「つい最近からですけど、そうですね」
少女は、ややおっとりとした、同時にはっきりとした口調で答えを返した。
「名前を聞いて良いかしら?」
「千景です。浅葱千景」
「へえ」
珊瑚は言葉だけでうなずいて、ただその少女、千景を見つめた。
彼女は珊瑚の言葉を、おそらくは名乗りを待っているようだった。
それでも黙っていると、彼女はちょっと不満げに眉をひそめた。
もう少し、その顔を見るのも悪くはない。けれど、彼女の瞳の色と、その名前に心当たりを見つけてしまったから。珊瑚は口を開いた。
「ななのヤツから聞いたわ。随分無茶をやったそうね」
「あ、あれは・・・・・・」
なんのことか思い当たったのだろう、千景は気恥ずかしそうに、やや顔をうつむかせた。
「銃を持ってたから。私は銃を持つと、変わるんです」
「へえ。じゃあ、今の貴女が本物なの?」
「まあ、世界にすれば、そうです」
「・・・・・・気になる物言いね?」
「はい。私にすれば、銃を持った私が本物ですから」
「それ、狂ってるわ」
考え無しにそう言ってしまって、しまったと思った。でも、彼女はあまり気にしなかったようだ。
「そうですね」
僅かにはにかんで、そう言った。
それから会話がとぎれた。
五分が過ぎて、ウィスキーのお代わりを頼むか否かで悩み始めた頃。
千景が、唐突に口を開いた。
「あの。つまらないことなんですけど」
「なあに?」
「今が夢で・・・、目を覚ましたら今とは別の、殺伐とした毎日が待っている。そう考えたこと、ありませんか?」
その問いに、珊瑚は苦笑した。
「ほんと、つまらないわね・・・」
いたって真面目な問いである事は、その翠碧の瞳を見れば分かる。だから珊瑚は正直に答えた。
「でも、今のあたしが夢かもって思ったことはあるわよ。貴女と同じくね。無意味でも、そう望んでしまうことが、あたしにはある。・・・・・・入らない力を押しつけられたから」
「入らない、ですか?」
「そう」
詳しく説明してもよかったけれど、それは面倒に思えた。今話さなくとも、ここにいればいずれは分かることだからだ。
珊瑚はグラスを傾けて、氷が揺れる音を聞いた。
「ねえ。つまらないついでに、訊ねていい?」
「はい」
「ここが何もない心の中だとして。耳を澄ませたら、何が聞こえると思う?」
我ながら、答えの分かり切った質問。なぜこんな事を、と思う。
案の定、千景は困ったように眉をひそめた。
「ええと。何もないから、何も聞こえないと思います」
それでも答えたのは、彼女が律儀だからだろう。
「その通り。でもね・・・・・・それでも歌がね、あるはずなのよ。すべてを取り払ったとしても残る歌がある。その歌はどうやったって誰にも届かないけれど、届けたいと思ってしまう・・・・・・」
珊瑚はそうつぶやくと、瞳を閉じて、顔を上げた。
(ねえ、知ってる? 誰もが歌を持っているってこと。その歌はね、何気ない言葉とつまらない問いかけに潜んでる。だけどそれは気づかれることが無く、気付いたとしても聞こえはしない。それでも他人に届けたくて・・・、無理な事だと知った時。絶望しなかった者だけが、音楽家になる・・・・・・)
千景はもちろん、気付かないようだった。未だ、眉をひそめている。
珊瑚は少しだけ気付いたから、問いに素直に答えることが出来た。
「あの」
人の息づかいしかないこの場席に、幼い少女の言葉が響く。
珊瑚は瞳を少女に向けた。
「貴女は、その・・・・・・」
千景は最後まで続けることなく口をつぐむ。
狂ってるの? とでも言いたかったのか。自分が語った言葉は、どう控えめに言っても、狂っているように聞こえる。
・・・いいえ。案外、名前を尋ねたかっただけかも知れない。
「ねえ」
「はい?」
「もういくわ」
「そう、ですか」
珊瑚はウィスキー代をカウンターに置くと、立ち上がった。ゆっくりと千景の後ろを通って扉までたどり着く。扉を開く前に、顔だけ振り返った。まるで、言い忘れていたことを思い出したかのように。
「そうそう。名前だけど」
「はい?」
「藤美珊瑚よ」
「えっ?」
「わたしの名前」
「あ・・・。はいっ」
千景は初めて、笑顔を見せた。
つられて珊瑚も目を細めて。
「それじゃ、おやすみなさい、千景ちゃん」
手を振って、扉を開いた。
「良い夢を、珊瑚さん」
千景が小さく手を振るのをみとめてから、珊瑚はバーを後にした。
次回予告
半田りくは一人焦っていた。
なぜならば・・・、ケーキを手作りすると、あの真城華代に約束させられてしまったからだ!
早速ケーキ作りに着手するも、キッチンに散らばるは、かつて作った塩辛ケーキの再来のみ・・・。
刻一刻と迫り来るタイムリミット。焦りは失敗を生み、そもそも、これまでまともなケーキを作れたことがなく、レシピを見てもちんぷんかんぷんだ!
はたしてりくは、ケーキをまともに完成させることが出来るのか?
次回 『可愛いティラミスは、いかが?』
おたのしみに!
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