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ハンターシリーズ125
『病院にて』

作・てぃーえむ

 


 ハンターとしての職務は、華代被害者の救済という言葉に集約されている。もちろん、被害を阻止することが出来たならばそれが良いにこしたことはなかったが、それは現実的ではなかった。だから、ハンター達は街を巡回したり、華代出現の予兆が現れた場所に張り込んだりしている。そうすることで、いざ被害が出た時にいち早く被害者の元へと駆けつけるのだ。
 二岡の場合、張り込みよりも巡回を行うことが多かった。前任者、つまり先代の23号は車に精通した人物だったらしく、大きな事件が起こった際にはドライバーを務めていたらしい。その影響か、二岡もまたドライバーとして動くことが多かった。いずれは2種免許の習得を命じられるかもしれない。
 でも今回は、普段とは違う任務を言い渡されていた。
 張り込みである。
 場所は、隣町の総合病院。
 まだ建設されて間もないらしく、壁は白く花壇も新しい。
 埃一つ無い廊下を掃除する名前も知らないおじさんに会釈をしながら、二岡は自販機前に置かれた長いすに腰を下ろした。
「はあ……暇だね……」
 隣に座っている空奈に話しかけると、彼女はイチゴミルクのパックに刺されたストローから口を離して、別に、と答えた。
 空奈は今、年頃の中学生が着るような、流行の柄のワンピースを着用している。普段のツーピースだと喪服みたいなので、病院では不謹慎だと考えたらしいが、知っている人の、しかも可愛い娘の普段とは違う服装を見るのはとても新鮮だった。もっとも当人は着心地が悪いらしい、しきりに服を気にしていた。
 服装が違うのも二岡も同じで、今は就職活動時に購入したリクルートスーツを着込んでいた。
「でも不思議だよね。予兆なんてどうやってキャッチしてるんだろ。科学で何とか出来るものなのかな」
「それが出来たからあんな物が作れるのでしょう」
「そりゃそうだけど」
 言いつつも、そう言えば空奈も華代出現の予報が出来るよなと考える。時読みといったか。詳しいことは聞いていないけれど、電波でもキャッチしているのだろうかと、当人が聞いたら機嫌を悪くしそうなことを思っていると。
「失礼ね、電波だなんて」
「な、何も言ってない! 言ってないよ!」
 二岡は慌てて手を振った。しかし考えが顔に出てたらしい、空奈は目を細めて二岡を睨んでいた。
「私は占いをしているだけよ」
「……う、うらない?」
 空奈はこくりと頷いた。
「時に刻まれた過去の事象の推移を見て未来を予測するの」
 彼女はとんでもないことをサラリと言った。
「時に刻まれた情報は正確だから、予測の精度も高い物になる。ただ、私が読みとれる情報は限定されているから、それだけだとどうしても予知のレベルまでは持っていくことが出来ないの。場合によっては推論の域を出ないこともあるし。そもそも未来は確定されていないから、いかようにも変わるのよ。まあ、そのあたりは運命を読むことでフォローしているのだけど」
「はあ」
 二岡は生返事を返した。現実味のない話だったので、戸惑っているのだ。そもそも、それを占いというのだろうか。
「なんか凄い話を聴いている気がするなあ……」
「そうね。一応、機密事項だもの」
 空奈はあっさり頷いた。
「機密をしゃべってるのー!?」
「貴方が言いふらさなければ大丈夫よ」
「言いふらしたら?」
「…………。私、二岡さんのことは忘れないわ」
 そんな恐ろしい情報なら話すなよと、二岡は思った。  
「ああ、さっきは未来はいかようにも変わると言ったけど、例外もあるわ。フラグが立てば……」
 ここで、空奈は眉をひそめて、入院病棟へ続く廊下の先を見据えた。
「二岡さんのお友達かしら」
「お友達?」
 顔を向けると、自分と同世代の青年がこっちにやってくる所だった。服装からして入院患者らしいが、見覚えがある顔だった。
「あれ、安藤?」
「お、二岡じゃん」
 二岡が歩み寄ると、青年は、気さくな笑みで小さく二岡に手を振った。
「なんだよ、誰かのお見舞いか?」
「え、いやその、それより何でお前、入院してるんだよ!」
 ごまかしついでに尋ねると、彼はあっけらかんと答えた。
「そりゃ病気だからだし」 
「聞いてないって!」
「言ってないし」
「言えよ! お見舞い行ったのに!」
「へー。それはともかく静かにしろよ」
「ごめん」
 ちょっとばつが悪そうに頭を下げる二岡の姿に、その青年、安藤は懐かしいものを見るように視線を柔らかくした。
「元々、心臓弱かったんだけど。知らなかったか?」
「いや知らないって」
 記憶の中にいる彼はいつも騒がしかった。確かに、体育の成績は悪かったが、それはだらだらと動いたり、頻繁に授業をボイコットしているからだと思っていた。
「ふーん。ま、みんなには知らせてなかったからな。先生は知ってたんだけど。で、お前何でここにいるの?」
 安藤は、二岡と、側に座る空奈を交互に見つつ尋ねてきた。
「仕事だよ」
「女の子同伴ってどんな仕事だよ。まさかSPか? この子はいいとこの子なのか? にあわねえぞ」
 彼の言葉はある意味正しかったが、二岡は苦笑しながら否定した。
「ちがうよ。俺もいろいろあるんだよ」
「いろいろねえ」
 我ながら、下手なごまかしだと思いながらも言うと、彼は一体何を考えているのか、ふいに同情するような目を向けてきた。
「そうか、お前も大変なんだな」
「え? あ、ああ。大変なんだよ」
 よく分からないが、とりあえず同意しておく。
「んじゃ、仕事邪魔しちゃ悪いから行くわ」
「うん。今度見舞いに行くから」
「待ってるよ」
 安藤は、ゆっくりと歩み去っていった。
 その力弱い背中が見えなくなるのを確認してから、二岡はまた長いすに腰掛けた。
「やっぱりお友達なのね」
「うん。高校で同級生だったんだよ」
 空奈に対しそう答えて、何気なく彼女の顔を見て、二岡は違和感に気が付いた。
 表情だ。いつもぼんやりしている空奈が、今は無表情になっている。
「どうしたの?」
「さっきの続き」
「さっき? ええと……フラグとか言ってたような」
「そう。フラグが立てば、未来は確定される。定められた運命になる。もちろんそれは完全ではないけれど、事実上不可避なの」
「はあ……」
「たとえば、今天井が崩れたら。あるいは太平洋の真ん中に落とされたら。無数の銃弾を受けたなら。まず助からないわよね。それと同じように、運命にも袋小路が存在するの」
「ええと、何が言いたいのかな?」
 彼女は普段、遠回しを嫌っている。時間の無駄だからと、率直に答えを言い、その後に必要を感じたならば理由を述べる。そんな彼女が、ここまで順を踏むのは何か意味があるはずだった。
「あのね」
 一瞬、空奈はためらうように目を伏せた。でもすぐに二岡を見つめなおし、
不吉な言葉を囁く。
「あのね、あの人、3日後に死んでしまうわ」
「はは、冗談だろう」
 二岡は聞き返さずに、そう笑ってみせた。
   
 





 翌日の昼。
 病院の食堂にて、二岡はきつねうどんとたぬきそば、それときしめんをのせたトレーを持って、臼井の待つ卓に着いた。
「ありがとう」
 臼井はまず、きしめんをうけとり自分のそばに寄せると、たぬきそばを空いた席の前に置いた。空奈の席らしいが、当人の姿はない。  
「それで空奈ちゃんは?」
 尋ねると、臼井はちょっと困った顔で人差し指を唇に触れさせた。
 それで彼女が何を言いたいのか察した二岡は、ちょっと顔を赤らめてきつねうどんに、トッピングのネギを載せた。
「ふう……」
 一つ息を吐き、さりげなく食堂内を見渡す。
 穏やかな表情で話をする中年夫婦がいる。逆に堅い顔でカレーを見つめている若者がいる。思えば病院ほど悲喜が交わる場所はなかった。生まれるのも死ぬのも病院で、そこで人は歓喜して絶望感に浸る。もちろん、そんなことは今更思い返すほど特別なことではない。それでも、そんな感傷に揺れてしまったのは、昨日再会した級友を思い浮かべていたからだ。 
「空奈ちゃんはなんであんな事言ったんだ?」
「なにか言ったの?」
「死ぬって……まったく、あの子の考えてる事はよくわかりません」 
 小首をかしげる臼井に対して答える声が、普段より強く、そして震えていたことに、二岡自身は気が付いていない。
 臼井は意外な物を見たかのように目を瞬かせた。
「君でもそう言う風に言うんだね」
「え?」
「当然といえば当然かな……。でも、あの子が死ぬって言ったのかい?」
 納得するように一つ頷くと、臼井はそんなことを尋ねてきた。
「ええ、まあ」
「なるほど」
 それからほんの数十秒して、空奈が戻ってきた。席に着いたのを確認して、昼食を開始する。
 しばらく、麺をすする音だけが卓に響いていたけれど、不意に空奈が口を開いた。
「明日の昼下がりだけど」
「うん?」
 二岡が油揚げを囓りつつ顔を上げると、それに合わせて空奈は話を続けた。
「現れるわよ。真城華代」
「ぶはっ」
 二岡は油揚げをはき出した。
「唐突だね」
「運命は突然決まるのよ」
「そういうものなの?」
「そういうものなの。場所は入院病棟の中庭だから」
「そこまで解るんだね……」
 超能力の一つに、サイコメトリーという力がある。物に触れることでそれに宿る念や出来事を読みとる力だ。彼女の時読みも同じような能力だろう。一つ違いがあるとすれば、それは読みとる媒体が物質ではなく時であるということだ。つまり、その場を動くことなく、遠くの土地で起きた過去の出来事や未来を知ることが出来るということだ。生半可な力ではなかった。
 心に浮かんだ恐れの感情を強引にかき消すかのように、二岡は別のことに思いを向けた。
 今食べているうどんの味。夕食のメニュー。ほしいギターの価格。次の休日をどう使うか。仕事のこと。
 それから真城華代のこと。
 依頼さえ受ければ、文字通り何でも出来る少女。性転換被害に目がいきがちだが、彼女が行っているのはそれだけではない。心と体に関する悩みを解決するのが彼女の仕事らしいが、実際には人を救ったり、災害を防いだりしたという報告もある。性転換が生きる希望を得るきっかけとなったケースもある。彼女の力なら、病人を助けることなんて造作もないだろう。今この病院で病魔と闘う人たちを救うなんて容易いはずだ。心臓が弱いと言った級友も健康になるだろう。不吉な予言など、簡単に吹き飛ばしてしまうだろう。
 彼女にうまく頼みさえすれば。
 二岡は、どきりとした。
 華代の力を利用するなど、あってはならないことだった。
 邪念を払うように首を振る。いつの間にかうどんは食べ終わっていて、腕時計を見ると、1時過ぎだった。
「お見舞い、行ってこようかな……」
「ああ、友達が入院しているんだっけ?」
 二岡の呟きに、臼井が反応した。
「はい。あ、でも一応勤務中だしなあ……」
「いいんじゃないかな。明日まで暇そうだし」
「そうですね。じゃあ、ちょっと行ってきます」
 二岡は立ち上がると、臼井と空奈に会釈をして、トレーと器を返却所に置き、入院病棟へと向かった。
 途中、ナースステーションによって、病室を確認してから、エレベーターに乗って目的の部屋までたどり着く。
 彼の部屋はなんと個室だった。寝転がり、退屈そうな顔で週刊誌を読んでいる。
「おーい」
 声をかけると、彼は一瞬目を見張って、すぐに笑顔になった。体を起こしてベッドの上であぐらをかく。
「うわ、ホントに来たし」
「俺は嘘は付かないって」
 二岡は、適当に目に付いた椅子をベットの側に引き寄せて座った。
「で、見舞い品は?」
「見舞い品? なにそれ」
「なんだよ冷たいな」
「だって勤務中だもん」
「それって違反じゃないか?」
「うちは緩いから問題ないよ。多分」
「どういう会社だよ」
 安藤はあきれ顔になったが、実際に緩い組織だから仕方がない。結構脳天気な二岡の目から見ても、これでも国の機関なのかと不安になるほどだ。それでも役割はしっかりとこなしているし、決めるときはちゃんと決めるのだから恐れ入る。 
「てかどういう仕事してるんだよお前」
「一言で言えば何でも屋だよ。お祭りの準備とかもするし、ネコ探しとかもするし」
「あの女の子のことも仕事か?」
 にんまりする安藤に、二岡は心持ち身を退きながらも頷く。
「そうだよ」
「さては誘拐産業だろ。お金がないんだな、かわいそうに」
「そんな訳ないだろばか」
 二岡はあきれた。昨日、憐れみの目をしたのはこんな事を考えたかららしい。もっとも、それを本気で信じているというわけでは無く、一つの冗談のようであった。
「でも可愛い子だったなあ。ありゃ将来、すごい美人になるぞ」
「そうだね」
 その点に関してはまったく異論はなかったので同意しておく。  
「中学生くらいか? 俺も生まれ変わったらあんな女の子になりたいぜ」
「そんな願望があるなんて初耳だな」 
「え? 男なら考えるよな?」
「いや、ねーよ」
「う、うそだろ? お前、可愛い女子中学生になりたくないの?」
 安藤は唖然としていて、もしかして自分はちょっとおかしいのではと考えてしまった。
「だってほら、俺は男だし……」
「だからこそだろ。わかってねーなー」
「うーん」
 よくよく考えてみれば、学生時代には似たようなことを考えたことがあった気がする。その考えが何時の間にやら変わっていたのは、やはり組織の性質から来るのだろう。なにせ、自分たちにとって性転換は身近な出来事なのだ。だからこそ、彼のような幻想を持つことが出来ない。 
「じゃあ、なれたらなるの?」
「是非とも」
 真剣な顔で、安藤は頷いた。そしてさっき読んでいた雑誌を手にとってあるページを開いて見せた。
「こいつを見てくれ。どう思う?」
「んー?」
 受け取り中身を読んでみる。
 それは漫画だった。
 絵はそこそこ、構成力もそれなりで、ようするに可もなく不可もなくである。内容はというと、セールスマンが悩めるサラリーマンの前に現れて解決策とアイテムを授けたものの、何故か最後はアイテムが暴走して幼女になってしまいましたというお話だった。続くとあったので、これは連載ものらしい。
 最近はこういったジャンルの漫画も増えてるよなあなどと思いつつ、二岡は雑誌を返した。
「で?」
「こんなセールスマンがいたら面白いと思わないか」
「あはは。いるわけないじゃん」
 二岡は笑い飛ばした。現実社会的にはどう考えてもフィクションである。
「いや、わからんぞ。世の中不思議なことはいろいろあるし」
「そりゃそうだけどさ」
 安藤はいたって真面目な顔をしていて、二岡は思わず身を退いてしまった。彼の言葉に反感を覚えたからでは無い。職業柄、そんな事をする存在のことをよく知っていたからである。万が一にもボロを出しては大変なので、そうならないように気を張った。だからこそ、次に彼の口から出てきた言葉の重さは不意打ちになった。
「それに本当にこんな奴がいたら、あれじゃん。俺助かるじゃん」
「いっ」
 一瞬言葉に詰まる。
「いや、いきなり死ぬ訳じゃないんだろ?」
 あまりにも軽く口にされた一言だった。だから二岡は同じように軽く答えようとした。
 無理だった。  
 安藤はきっと気が付いただろう。それでも彼は何事もなかったかのように話を続ける。
「でもこれもロマンだよなー。謎の男に謎のアイテム。いいねえ」
「そうかなあ。あの漫画の通りだと幼女になっちゃうぞ?」
「ふん。幼女の何が悪い」
「いやお前、幼女だぞ?」
「最高じゃないか」
「さっきは中学生になりたいとか言ってなかったか?」
「なりたいな。だが幼女も良い」
「女の子なら何でも良いのかよ」
 返答しながら、二岡は考える。
 さっき食堂で考えていたあのことを。
 空奈の時読みが確かならば、彼の望みを叶える存在が明日現れるだろう。そしてその場に彼が居さえすれば、今彼が口にしたことが現実になる。これまでの彼女の傾向からして、おそらくは健康的なスポーツ少女当たりに性転換されるだろう。だが、性転換は問題にならない。むしろ『貴重な体験』ですませることが出来る。ハンター能力を使って健康な彼に戻せばいい。それですべてうまくいくのだ。
 彼の病気が具体的にどう言ったものか、二岡は詳しくは知らない。まだ尋ねていないことだ。でも病院にいる以上はあまり良くない状態にあるのだろう。でも明日の昼、裏庭にいるようにそそのかせば。
 彼の病気が極めて深刻で、空奈の予言が確かだとしても。
 命が助かる。
 教えさえすれば。
「そりゃ無理なのは解ってるけどさあ。なれるもんなら一度なってみたいって。……二岡?」
「あ、うん。なにさ」
「なにさって、なにぼーっとしてんだよ」
「あはは、疲れてるのかな」
「おいおい」
 あきれ顔をする安藤に、二岡は脳天気に笑って見せる。今考えていたことを忘れるよう、自分に言い聞かせながら。
 結局その後の小一時間、二人はとりとめのない話に終始した。 






 病棟の一階には中庭が存在している。
 天井はガラス張りで、空調も整えられいるので、どんな天候だろうと植物観賞を楽しむことが出来る。ベンチも自販機もあるので入院患者にとっては憩いの場の一つになっていた。
 昼下がり。
 いつもはその時間帯になると結構な人数が集まって来てにぎやかになるはずなのに、今は誰もいなかった。
 そんなもの寂しくなっている中庭に、客が訪れた。
 その唯一の客である安藤はドアの前で一度立ち止まり、軽く見渡して誰もいないのを確認すると、引き返そうとして……、また止まった。
 逡巡の後、中庭に足を踏み入れて、自販機でコーヒーを購入してから、ベンチに腰掛ける。
 病室に戻ればテレビもあるし、携帯ゲーム機だってある。わざわざ中庭にやってきたのは、心の隅にある何かが気になったからだ。 
 病室というのは気が滅入る。ただでさえ病気のせいで体がだるいのに、院内に陰気がよどんでいるように感じてよけいにつらい。もちろん陰気なんてものは無いのだろう。ただ、病院にいるという事実が、己の体の状態を明確にしているように思えて、それがずっと苦しかった。
 今は違う。
 違う何かに見える。でも、その何かが解らない。うなだれていると、何者かの影が目の端に映った。
 顔を上げると、女の子が居た。
 きっと小学生だろう。よそ行きらしいワンピースと小さなポシェット。誰かのお見舞いに来たのだろうか。
「お悩みですか、おにーさん?」
 女の子は笑顔で尋ねてきた。
「お悩み……なのかな?」
「ハテナなんですか?」
「いや、悩みってほどじゃ……。いや、悩みかなあ」
 悩みと言うよりは、不安なのだが、やはりそれも悩みの一つだよなと安藤は考えて、そこで密かに笑った。小学生の問いに真剣に考えてる自分がおかしかったからだ。
「なら、教えてください。私が解決して差し上げます」
 女の子は、胸を張って自信満々に言い切った。そしてポシェットから紙切れを取り出すと、安藤に手渡した。
 見れば、それは名刺だった。
「ましろかよ?」
「はいっ」
 満面の笑みを浮かべる女の子。
「心と体の悩みを……解決してくれるって?」
「その通りです」
 名刺に書かれた文を読みながら尋ねると、少女はしっかりと頷いた。少なくとも、冗談で言っているようには見えない。何かの遊びというわけでもない、笑顔の中に真剣さが見て取れた。だからだろうか。安藤は付きやってやろうという気持ちになった。
「ふーん。体の悩みって言ったら……これしかないかなあ」
「ふむふむ。なんでしょう」
「俺、見ての通り入院患者ね。なんか心臓がやばいことになってるんだけど」
「そうですね」
「やっぱ、健康が良いよ。そうすりゃいろいろ出来るしな」
「なるほど、よく分かりました! 健康になっていろいろですね!」
 女の子、真城華代は納得顔で大きく頷いた。
 どうやら自分は、うまくこの子の相手をすることが出来たようだと、安藤はほっとした。
 でもすぐに、何か引っかかりを覚えた。
 先日から抱いている気持ち、健康体になりたいという気持ちの裏にある、よく分からないもの。それが、知らず安藤の口から漏れ出てくる。
「でもな、きっと違うんだ」
 不思議な響きを持つその声色が、今にも動き出そうとしている真城華代を止めた。
「……違うって、なんですか?」
「さあ、なんだろうな。でも違うんだよ」
「違うって、健康になりたいって願いがですか?」
「いや。それは確かに思ってる。でもな、なんていうかなあ……。うーん。今のままでもいいやって感じかな」
 女の子は、驚きに目を見開いた。
「そのままで良いんですか? そんな体なんですよ」
「そうだな」
 安藤は、心臓がやばいとしか伝えていない。それなのに、この子は安藤の体の状態を把握しているようだった。
「私ならどうとでも出来ます。貴方が私にご依頼してくれたなら、すぐに叶えて差し上げます」
「本当かなあ」
「本当です」
「それでも、やっぱりこのままで良いよ」
「なんでですか。だって、もうすぐ……」
 女の子は、まるで理解できないと言わんばかりだった。
「まあ俺もなんでだろって思うんだけどさ。なんつーかな、俺って今まで生きれたのが凄かったんだわ。ほんとは3年くらい前に死んでもおかしくなかったんだぜ。まあ医者が言うにはだけど。医者って時々当てにならねえよなあ」
 安藤は、冗談じみた口調とは裏腹に、穏やかな声色で言葉を紡いでいた。
「でもさ、今も俺、一応は生きてるし。それにさ。一昨日、久しぶりにダチに会ったんだわ。で、そいつは昨日も見舞いに来てくれてさ。初めて見舞いに来てくれてさ。下らねえ話して、それだけなんだけど、俺、ちゃんと生きてるんだなって思ったよ。そしたら……」
 ふいに、安藤は言葉を切った。そしてくすりと笑って見せた。
「そしたら、うん。このままでも良いかなって、思ったんだよ」
「……私には解りません」
「そだな、俺もよく分からん」
 そう言って、また安藤は笑った。笑いながら言葉を続ける。
「まあ、それでも願い事を叶えてくれるっていうならさ。今度生まれ変わったら健康になれるよう祈ってくれよ」
「それがおにーさんのご依頼ですか……」
 真城華代は、理解しがたいという表情を引っ込めて、かすかに頷いた。頷き返すと、彼女は登場した時と同じ笑顔を見せてくれた。
「解りました。では『その時』をお楽しみに」
 それだけ言うと、彼女はくるりと背を向けると歩き出そうとして……。
「あ、それはおまけです。それでは!」
 そう言い残して、姿を消してしまった。
 瞬き一つする間に消えてしまったのだ。
 思わず目をこすり、頬までつねって、その痛みに顔をしかめる。
「もしかして、もったいないことをしたのかねえ……。……ん?」
 ふと気が付いた。
 今までずっと体にまとわりついていた倦怠感が、今は無くなっている。彼女の言うおまけの効果なのだろうか。
「……ホントにもったいないことしたんだな……」
  今さっきまで女の子が立っていた場所を見つめながら、安藤は一人肩をすくめた。







 家を出たら、雨が降っていた。
 ここへ来る前はそれなりに太陽の姿が見えていたのに、日が沈んだ途端に雨雲がやって来たらしい。
 二岡は泣いている空を玄関先で見上げながら、途方に暮れた。
 傘を持って来なかった。車が置いてある場所までは、それなりの距離を歩く必要がある。雨具無しに出歩けば、びしょ濡れになることは明確だった。
 ため息をつき、僅かな時間だけ振り返る。明かりがついているはずなのに、そこは外よりも暗く見えた。
 そういえば、この家に来るのは2度目だったなと、二岡は思い出す。
 一度目は学生時代、暇だからという理由だけで遊びに来た。今が二度目で、その理由は……、くそったれと内心で悪態を付きながらもそのことを再認識する。よりにもよって葬式だった。
 二岡は彼女が残した名刺を取り出して、それをぼんやりと見つめながらあの時の記憶をなぞった。
 あの日。
 中庭に駆けつけた二岡が見たものは、無言で、でも心安らかにコーヒーをすする安藤の姿だった。
 彼の手の中にある名刺を見て、二岡は自分の立場も忘れて彼に詰め寄った。
 何も願い事をしなかったのか、という問いに対して彼は、したさ、と答えた。
 その答えを聞いた時、二岡はほっとした。先日と比べて、間違いなく顔色が良くなっていたからだ。誰がどう見ても健康体で、珍しくあの少女は勘違いすることなく仕事をしてくれたのかとほっとした。
 しかし願い事の内容を聞いて、思わず耳を疑った。そしてさらに問いただした。健康になりたいと願えば、昨日言ってたことと同じになったはずなのになぜと。声を荒げる二岡に、安藤は迷い無く頷いて見せ、心配してくれてありがとうと言った。それで二岡はもう、何も言えなくなってしまった。
 安藤は、二岡のあまりにも奇妙な言動、彼の立場からすれば致命的なミスに対して、何らかの推測を行ったようだったが、それを口にすることはなかった。気を遣ってくれたのかもしれない。実際問題として、もしもその考えを他人に漏らしていたならば、二岡の立場はとても苦しいものとなっただろう。 
 それで。
 その翌日だ。彼は発作を起こしてあっさりと死んでしまった。
 聞けば彼は、二岡が考えていた以上に危険な状態にあったらしい。今まで生存し、しかも病室を出歩けていたのは奇跡みたいなものだったらしい。
 もう、二岡には訳が分からない。彼が穏やかだった理由も、死を受け入れた理由も。それを推察出来るほどに深いつきあいは無かったのだ。
 彼の願いは、おそらく、きっと、すでに叶えられただろう。二岡も真城華代と相対するハンターだ、彼女がどのような勘違いをして力を発揮したのか、想像は付いた。そしてそれだけは救いなのかもしれないと、二岡は自分に言い聞かせた。
 くそったれと、もう一度悪態を付きながら、いくつかの後悔と共に名刺を懐にしまう。それで歩き出そうとして、目の前に人が立っていることに気が付いた。
 臼井と空奈だった。二人とも右手で傘を差し、でも空奈は左手にもう一本傘を手にしてた。
「傘持って来てないだろうって思ってね、持ってきたんだけど」
「済みませんわざわざ」
 微笑を浮かべる臼井に頭を下げる。すると、空奈が黙ったまま、左手の傘を差しだしてきた。
 二岡はその傘を受け取ろうとして、空奈の服装に気が付いて手を止めてしまった。
 いつも通りの、喪服のような黒い服。
 いや、それは違うのだと突然気が付く。ような、ではなく、これは紛れもなく喪服なのだ。
 そう思い至った途端、空奈のあの予言が耳に蘇った。
 あのね、あの人、3日後に死んでしまうわ。
 そう彼女は言った。
 でもそれは本当だろうか。
 二岡は思考してしまう。こんな考えは良くないと解っていながらも、思ってしまう。
 これは予言ではなく、実は彼女の言葉こそが、彼を殺してしまったのではないのか。彼女こそが、彼の死を運命付けてしまったのではないのか、と。
 怖気が走った。
 目の前の少女が得体の知れない死神に見えて、二岡は初めて心の底から恐怖した。
「ありがとう」
 二岡はそれでも、傘を受け取った。努めていつも通りの動作で傘を広げて、雨の中を歩き出す。
 歩を進めながら、全霊を込めて、めいっぱい歯を食いしばって恐怖に立ち向かう。ほんの僅か、心の隅に残っている光、少女に対する信頼を糧にして、必死の思いで恐怖をかみ砕いていく。
 だから彼は気が付かなかった。 
 傘が二岡の手に渡った瞬間、少女の瞳が揺れていたことを。瞬きを堪えながら、先を行く彼の背を見つめ追いかけていたことを、二岡はついに気付くことはなかった。



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