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ハンターシリーズ129
『二岡くんと夢織姫さま』

作・てぃーえむ

 

 二岡は宙に浮かんでいた。
 別にワイヤーアクションの最中という訳ではない。正真正銘浮かんでいるのである。かといって、突然飛行能力が身に付いた訳でもない。
 夢である。
 二岡は今、夢を見ているのだ。
 しかしおかしな夢であった。辺りはパステルピンクの光に包まれていて、ちょっと離れたところにカラフルな球がいっぱい浮かんでいる。大きさは2メートルくらいだろうか。よくよく見れば、形容しがたい生き物も飛び交っているようだ。まったくもって不思議な空間である。
 まあ、夢なのだから仕方がないなと、二岡は納得することにした。
 さて、これからどうするか。せっかくの夢だし、普段は出来ないことをするのが面白いのだが。
 ぷかぷか浮かびながら考えていると、突然人影が現れた。
 銀髪で青い瞳のお嬢さんだった。二十歳には届いていないだろう。18か19歳あたりだろうか。ファンタジーの巫女さんみたいな格好で、とんでもない美人であった。しかし、なんだか眠そうだ。
 彼女はぽけーっとした眼をしたまま、ぺこりとお辞儀をした。
「はじめまして」
「あ、ども。はじめまして」
 慌てて二岡は、佇まいをただしてお辞儀を返した。
「あの……早速で……もうしわけないのですが……」
 お嬢さんはスローテンポでそんなことを言うと、どこからともなく長大な剣をとりだして、二岡に斬りつけた。
 ざしゅん。
「ぐわー!」
 なんという理不尽な展開。
 二岡はたまらず斬られた胸を押さえ込んだ。
「ち、血が……あれ、出てないや」
 斬られたのにダメージはない。二岡はほっとした。
 しかし安堵するのは早かったらしい。
 急激に胸が痛み出した。いや、体中の骨もきしみだす。
「うお、うおあ、のおおおおおおお!?」
 べきんごきんと音が鳴り響き、二岡の背丈は縮んでいった。更に肌は白くきめ細かくなり、足は内股に、胸がぷくーっと膨らんで、最後に男性の象徴が引っ込んで消えてしまった。
「なんだ……何が起きたんだ……」
「鏡をどうぞ」
「え。あ、うわああああああああああ!」
 お嬢さんが取り出した鏡を見て、二岡はムンク的に叫んだ。
 すっかり性転換していたのである。しかもこの前カツラをかぶったときと同じ姿だ。 
「な、なんてこった……俺もとうとう半田姉妹の仲間入りなのか……? 23号だから……ええと、双海ちゃんか? ちくしょう、可愛いじゃないか!」
 混乱しながら頭をぶんぶか振っていると、お嬢さんがそっとおしえてくれた。
「大丈夫です……ここは夢ですから……現実の体は変化しません……」
「はっ。そうだ、今は夢の中だったんだ!」
「まあ心は別ですけどね……ふふふ」
 不吉なことを言うお嬢さん。
「正確に言えば……夢の狭間の世界ですね……。ほら、あの球を見てください」
 そこいら中にぷかぷかしてる大きな球を指さしながら、彼女は続ける。
「あの一つ一つが人の夢……人じゃないものの夢もありますけど……」
「夢。あれが?」
 手近な球をのぞき込んでみると、なんとその中で3号が料理していた。恐ろしく手際が良く、出来た料理も美味しそう。夢だからだろうか。二岡は、3号の真の料理の腕前を知らなかった。
「ちなみに……あれがバクです」
 遠くの方でふよふよしている謎の動物はバクらしい。よくよく観察すればなるほど、確かに夢だという大きな球にかじりついている奴がいた。あの球は悪夢なのだろう。
 二岡はここで、ようやく目の前のお嬢さんに対して不審に思った。
「ええと、君、だれ?」
 自分の喉から出てくる澄んだ高音に顔をしかめつつ尋ねると、お嬢さんはにんまり笑った。
「はい……実は私……貴方を恨んでいるのです」
「は?」
 ずれた回答に、二岡は思わずクエスチョン。でもお嬢さんはかまわず言葉を続ける。
「私の大事なお友達……霧ちゃまを独り占めする……悪い男の子……そんな貴方にプレゼント……」
「ぷ、ぷれぜんと?」
「はい……プレゼントしに来ました……。そうすれば……霧ちゃまにいかがわしい事……出来ませんよね……」 
「あの、何のことだかさっぱりなんだけど……。霧ちゃまって誰? もしかして、ネーゼちゃんのこと?」
 そう言えば、呪いのカツラの制作主である月編シチリが、ネーゼのことを霧ちゃんと呼んでいたなと思い出す。すると、お嬢さんは頷いた。
「ええ……。もう、最後に会ってから200年……あれからまったく会いに来てくれないし……一体何をしているかと思い調べてみれば……人間の男に……うつつを抜かして……。ああっ、きっとだまされたに違いないわ……。卑怯な人間め!」
 お嬢さんは目を尖らせて睨み付けてくる。しかし、寝不足そうな目にはあんまり迫力がなく、むしろ脱力感の方が大きかった。
「そんな、だますって。そもそもあの娘と出会ったのってまだ最近なんだけど……」
 言い訳して見るも、彼女は聞く耳を持ってくれなかった。
「ええい……だまらっしゃい。とにかく……女の子になれば……悪いこと出来ませんよね? 出来ませんよ。出来ないもん。そんなわけで……貴方に女の子の心をプレゼントしますね」
「……は?」
 二岡は目が点になった。
「言い直すと……ガールズハートをプレゼントフォーユー」
 言い直されても困る。
「さっき貴方を斬ったこの剣……私の力を封じた剣なんですけど……、さっきこれで……貴方の心の形を女の人にしました。もう一度斬れば……精神もちゃんと……女の人になりますよ……」
「…………」
 てことはなにか。このままぼけっとしていると精神的に性転換しちゃうってことなのか。
 二岡は心持ち脂汗を浮かべた。どうやら大変なことになってきたようだ。
「…………ええと。結局、君は誰なの?」
「私の名前は……フェルミラータ。最源四姫が一鬼、夢織フェルミラータですよ……にやり」
 そう言って笑う彼女の口元には、小さく尖った犬歯が覗いていた。
 





「あはは、待て〜」
 そんな気の抜けた声を背に受けながら、二岡は必死に逃げていた。
 地面は無いが、何故か走ることは出来るので、力の限り手足を動かした。
「待つわけ無いだろ!」
 怒鳴り声を返しつつちらりと振り向くと、10メートルくらい離れたところに、彼女はいた。相変わらず眠そうな顔で、でもでかい剣を振りかぶりスキップしながら付いてくる。
「逃げても無駄ですよ〜……」
「無駄なもんか! こうしてりゃそのうち時間が経って目が覚めて夢からおさらばだ!」
「むだですってば〜……。だって自力では起きられないようにしてますもの〜」 
「でもそのうち誰かが起こしてくれるだろ! くれるに違いない! くれるもん!」
「あ〜……その言い方……私の真似ですね〜……ずるいですよ〜」
「ずるくない!」
 二岡は走りながら考える。
 このままではいつ捕まってもおかしくないだろう。差が少しずつ縮まっているからだ。しかし二岡には策があった。ここは夢の狭間であり、知り合いの夢も当然存在しているのは確認済み。つまり、知り合いの夢に接触し、コンタクトすることも可能なのだ。たぶん。そうあってほしい。
「とうっ」
 二岡は見覚えのある顔が浮かぶ球を見つけると、そこへダイブした。
「ああっ……」
 フェルミラータの驚く声を背に、二岡は落下していく。
 そしてたどり着いた先は……屋敷の前だった。
 どうやら夢の中に潜入することが成功したようだ。何処の屋敷かは解らないが、ちょうど門から巨漢が姿を現すところだった。
 男の一号だ。
 彼はミッションクリア直後なのか、晴れ晴れした顔をしていた。
「1号先輩!」
 二岡は駆け寄った。すると1号、驚きに軽く目を見開きながらも、受け答えてくれた。
「ん? 誰だ君は。どうして俺のコードネームを知っている?」
「俺ですよ。二岡です。23号の!」
「……23号だと? お前、どうしてそんな……。まさか華代被害に遭ったのか?」
「いえ、そうじゃないんですけど。それより至急お話ししたいことが!」
「ふうむ。よくわからんが緊急事態みたいだな。ここではなんだから、あの店で話を聞こう」
 1号が示した先にはファミレスがあった。都合が良いが、夢だから当然と言えば当然だった。
 急ぎ足でファミレスにたどり着き、扉を開いて……。
 中に入ったら何故かどこかの学校の教室になっていた。
「あれ? なんで教室?」
 しかも夕方だった。夢だからと言えばそこまでだが、唐突すぎて二岡は戸惑った。
「それで、相談事は何かしら?」
 突然響いた涼やかな声。
 なんと、さっきまで巨漢だった1号が、少女のいちごになっていた。
 いかにもお嬢様学校なセーラー服を身に纏った美しい少女が、お澄まし顔で腰に手を当てて立っている。
「え、あれ、1号先輩じゃなくっていちご先輩? なんで?」
 わたわたしていると、まったく落ち着きのない子ね、と笑われてしまった。
「もう。相談したいって言ったのは貴女でしょう? 言ってご覧なさい」
「いや、その、あのー。ええとですね」
 二岡は困った。いざ説明しようにも、どこから説明すればいいのか解らないのだ。手間取っていると、いちごは眼差しを優しく、それでいてからかうような意地悪なものに変えた。
「やっぱり恋?」
「はい!?」
 二岡はびっくりした。なんでそうなるのか。しかしいちごは続ける。
「そうよね。だって双海ちゃん、最近ちょっと色っぽくなったもの。わかるわ、女の子は恋をすると変わるものね。わたしもそうだったし」
「いや、その。あのー」
 なんでその名を知ってるんだと思いつつも、的確な言葉を返せずに口ごもる二岡。
「それで、相手はどなた?」
 端正な顔を近づけて、二岡の顔をのぞき込むいちご。後輩をからかう先輩そのものだ。
「いやだからそうじゃなくって……」
「ん〜?」
「ですから」
「ええ」
「ご、ごめんなさい!」
 二岡はたまらず、窓から外へダイブした。





「ええい、どうなってるんだ!」
 二岡は叫び散らしながら、再びピンク空間を走っていた。
 まったく理解不能な展開であった。いくら夢だからってあの変わり様はないだろう。それとも、1号にもあのような願望があったとでもいうのだろうか。いや、ありえない話だ。そんな願望があるならとっくに精神まで女性化してるはずだ。
 それに、ちゃんと説明ができなかった自分も不甲斐なかった。自分では口は回る方だと思っていたが、あの体たらくだ。
「落ち着け。落ち着くんだ……」
 二岡は努めて呼吸を一定のリズムで繰り返した。頭の中を整理し、言うべき言葉を整頓していく。
「まず、これは夢だと認識させる。次に自分の状況を伝える。そして目覚めたら俺を起こしてもらうようにお願いする。これだっ!」
 と、ここで目の端に捕らえた球の中に、見知った顔を見つけた。ピンクの髪のシスター。彼女なら、落ち着いて話すことも出来よう。
「とうっ」
 ダイブすると、教会に出た。
 教会に足を踏み入れると、そこではモニカが祈りを捧げていた。
 さすがはクリスチャン。夢の中でも敬虔である。
「あの、モニカ先輩」
 声をかけると、彼女は顔を上げた。
「あら、ごめんなさい。お祈りに夢中で……」
「いえ。それより至急お話ししたいことが」
「まあ、懺悔ですか?」
「いや、そうではないのですが。実は……」
 かくかくしかじか。 
 一通り説明すると、モニカはこくりと頷いた。解ってもらえたらしい。
 どうやらこれで助かりそうだ。二岡は安堵した。
「そうでしたか。それは……」
 だがここで彼女に異変が起きた。
「!?」
 瞬き一つでシスターは神父になったのだ。さっきまでの真摯な表情はどこへやら、陽気な顔で笑ってる。
「クレイジーだぜ! HAHAHA!」
「……え? あれ? なにこれ。あれ?」
 あまりの変わりように、二岡の思考は一時停止した。
「ヘイ! シスターフタミ! こんな時はゴッドとレッツダンシング! フォウ!」
「てかなにそのキャラ!? それでもあんた神父かよ!」
 ムーンウォークしている神父に、思わず二岡は突っ込んだ。
「オウ、イエス! アイアムゴッドファーザー! さあて悩みは消毒だあ! ヒャッハー!」
 サムズアップした神父は、こともあろうに火炎放射器をどこからともなく取り出すと、教会を焼き始めた。
 本格的に狂ってる。
「グリルパーティーだぜ!」
「違う! 断じて違う! どうなってるんだー!?」
 二岡は燃えさかる教会から逃げ出し、ピンク空間に戻る。
「つ、次! 次だ!」
 隣に浮かんでいた球の中に知った顔があったのですかさずダイビング。
 着いた先はオープンカフェだった。
 丸くて白いテーブルに、所狭しとスイーツが乗っかっていて、それを女の子が幸せそうに食べていた。
「ふ、双葉ちゃん! 助けて!」
「ん〜?」
「俺です。こんな姿ですけど二岡です!」
「二岡くん? どうしたのそんな可愛くなっちゃって」
「いやそれはどうでもいいから! それより……」
「ああ、わかってるわ」
 双葉はびしっと掌を突き出して二岡の台詞をせき止めると、ゆっくりと立ち上がった。
「俺と一緒にマッスルトレーニングしたいんだろう!」
「しねえよ! てか君もか!?」
 叫び返した頃には、双葉はごつい男になっていた。何故か上半身裸で、鍛え抜かれた筋肉がひくひくしている。
「見てくれこの胸筋! 格好いいだろう!」
「どこがだ!」
「なん……だと……!?」
 双葉……というか28号は、ショックを受けてよろめいた。しかしすぐに体制を立て直し、ポージングを開始した。
「ならこれはどうだ! 上腕に注目してくれ!」
 ぴくぴく。
「きゃっ、そ、そんなもの見せるなー!」
 二岡はたまらず筋肉ワールドから逃げ出して、またまた別の球の中へと入っていき……たどり着いたのは公園だった。ことあるごとに、りくが黄昏ている公園だ。
「り、りく先輩……夢の中でも黄昏れてるんですか……」
 二岡は思わず呟いた。 
 半分魂の抜けた目で、りくがブランコに揺られていたのだ。
「あはは……これ夢なの? ここでも黄昏れてる俺って一体……」
「げ、元気出してくださいよ!」
「……てか、お前さんは誰だ?」
「二岡ですよ。23号の!」
「……。23号?」
 りくはブランコから降りると、二岡に近寄ってきた。
「なんで23号がそんな姿で俺の夢に出てくるんだ?」
「それはですね……」  
 かくかくしかじか。
「ってわけで、追われてるんですよ。申し訳ないんですけど、目が覚めたら俺を起こしに来てくれませんか?」
「ふーん。そいつはまた災難だったな。おまえも最近は大変だな」
 りくは同情の眼差しを向けてくれた。ここへ来てようやくまともな状態の人物に出会えたので、二岡はちょっと感動気味だ。
「さすがは先輩。解ってくれますか」
「もちろん。つまり、おにごっこしてるんでしょ?」
「はい。鬼ごっこ……。え?」
 りくを凝視して、二岡は顔を引きつらせた。さっきまで存在していた知的な眼差しが消えて、今は年相応のつぶらな瞳をしている。 
「ふたみおねえちゃん、りくもまぜてよ」
「うわー! りく先輩までですかー!?」
 頭を抱える二岡を、りくは潤んだ瞳で見上げてきた。
「あう……まぜてくれないの?」
「そ、そんな目でわたしを見ないでー!?」
「あっ。ふたみおねえちゃん、置いていかないでよう!」
 りくの泣き声を背にして、二岡は四度逃げ出した。
「ま、まともな人……! まともな人はいないの……!?」
 神だかなんだかに祈るようにして目に付いた球に飛び込んでいく。
 今度は運動場で、生徒達がグラウンドを走っていた。それを指揮するのは、ジャージ上下のごつい男。10号である。二岡はすぐさま駆け寄って助けを求めようとした。
「10号先輩! 助けてー!」
「どうした授業中だぞ?」
 たしなめるような語調とは裏腹に、10号はナイスミドルな笑みを浮かべて、二岡を迎えてくれた。いかにも度量が広い信頼できる先生といった感じである。 
「そんなに慌てて。落ち着きたまえ。落ち着いて……」
 急に10号の言葉が途切れた。
「あ、あのー?」
 おそるおそる呼びかけてみると……。
「双海ちゃん!」
 突然抱きしめられた。
「うわっ。あのっ」
 豊満な胸で顔を包まれて、二岡は息が出来ずにじたばたした。
「あ、ごめんなさい……」
 しょげかえった女性の声。一〇号は燈子先生になっていた。しかも場所が保健室だった。何故に保健室?
「解ってる……私は教師で貴女は生徒よね……」
「いや突然何言ってるんですか。それより」
 燈子先生は、当然のように二岡を無視した。
「でも……もう我慢できない! 貴女が愛しくてたまらないの!」
「ですから話を……てか本当にまともな人はいないのか!!」
「双海ちゃん! 好きっ!」
「むぐっ! ちょ、先生! わたしレズっ気はありませんから! 放してー!?」
 じたばたじたばた。思いっきり暴れて抵抗して……。その笑い声が聞こえてきたのはその時だった。
「う、ふふ」
「そ、その声は!」
 フェルミラータの声が保健室に響いていた。しかし姿は見えない。姿を見せぬまま、彼女はある事実を突きつけてきた。
「どうやら……その姿に精神が馴染んできたようですね……」
「なにを言って……。……はっ!?」
 二岡は、さっきの自分の台詞を思い出した。
「レズっ気は無い……ですか……ふふ……結構なことですよ……」
「うっ。うわああああ!」
 覆い被さっている燈子先生を突き飛ばし、外へとひた走る。
 何時の間にやらまたピンク空間に戻っていた。
「なぜだ……なぜこんな……みんなおかしくなっているんだ!」
「うふふふ……私の力を持ってすれば……今ある夢を織り直すなんて……簡単ですよ……」
「そうか……お、お前がみんなを変にしたんだな!?」
「その通りで……ございます……」
 声がすぐ側から聞こえてきて、二岡は思わず立ち止まってしまった。
「ふーたみちゃーん。みぃーつけたっ……」
「ううっ!?」
 巨大な剣を携えたフェルミラータが虚空から沸いて出た。しかも目の前にである。  
「外見の影響で……もう……私がなにをしてもしなくても……近いうちに……心は女の子に……。でもいけません……。仕上げは私が……うふ。うふふふふ」
「た、ただではやられないぞ!」
 二岡は左前中段の構えを取った。一〇年ほど前まで習っていた少林寺拳法をここで披露しようと言うのだ。
 しかしフェルミラータは余裕を失わない。
「あいにく……ここでは私はティンハーモーテック……略して天下無敵……ですよ……」
「ぐっ……! くらえっ!」
 上中段突きに中段蹴りを放つ二岡。しかし攻撃は当たらない。当たっているはずなのに手応えがまるでないのだ。
「無〜駄無駄無駄無駄ぁ〜。さあ……堪忍して女の子ハートになりましょうねえ……。うふふ。あはは」
 フェルミラータは剣を振りかぶった。剣先が残像を残して輝線を描く。
 万事休す。
 二岡は目を瞑った。
「…………」
 しかし衝撃が来ない。
 うっすらと目を開けると、二岡の体が白い霧に包まれ、剣はその霧に受け止められていた。さらに、フェルミラータが驚愕に目を見開いている。
「霧ちゃま……なんで!?」
 その声を境に、言葉が読みとれなくなった。日本語から、知らない言葉にシフトチェンジしたのだ。
「…………! ……!」
「………………」
 霧が深くなるにつれて、何処のものとも解らない言葉のやりとりが、少しずつ遠ざかっていく。
 完全に視界が白く染まる瞬間、長い金髪が揺れた気がして……、そこで二岡の意識は途切れた。





「うっ……ん?」
 二岡は自室のベッドで目覚めた。
 室内はまだ暗く、夜は明けていないらしい。
「おはよう、にいさん」 
「ね、ネーゼちゃん?」
「ええ」
 頷き微笑むネーゼ。おや、と二岡は思った。どことなく、彼女の雰囲気がいつもと違う気がする。なんというか、いつもの脳天気な感じが無いのだ。そしてこれは室内が暗いせいでよく分からないのだが、そこはかとなく、頬が赤くなってる気がする。たとえばそう、酔っぱらっているみたいだ。
「ごめんなさいね。あの娘、少し変わってるの。目が覚めてるときはまともなのだけど……」
「うん……まあ、助かったから良いけどね……」
「あら。やっぱりにいさんはやさしいわね。でも本当にごめんなさい。機会があるごとに訪ねてはいるのだけど、その時に限ってちょうど眠っててね。とりあえず近いうちに訪問するって事で、それで退いてもらったわ」
 なるほど。確かに、趣味は寝ることですと言いそうな娘だった。
「へえ……。ところで、訊いてもいいかな?」
「なあに?」
 ネーゼは婉然と微笑みながら小首をかしげて見せた。なんだか恐ろしく色っぽい。
「ずいぶんタイミング良く助けてくれたけど……」
「ああ。ちょうど夢織の住処の側まで来てたのだけど、その時、ちょっと話を耳にしてね。もしやと思って来てみたら、案の定だったわけね。間に合って良かったわ」
 どうやら、たまたまだったらしい。
「へえ。で、あの、なんで俺のお腹に乗っかってるのかな?」
「もちろん貴方をこっちへ引き戻す為よ。必要なことだったの」
 ちょうどへその上にまたがって座っているネーゼは、平然と答えた。
「じ、じゃあ、なんで口元から赤い何かが垂れてるのかな?」
「貴方を現実に戻すために力が必要だったの。だから悪いとは思ったけどコップ一杯分ほど血をもらったわ」
「そ、それは仕方ないとして……。じゃあ、なんで俺の腕は縛られているのだろうね?」
 そう。二岡は今、両手首を縛られているのだった。
 ここでネーゼは、二岡の頬に手を添えて、息がかかるほどに顔を近づけた。垂れた前髪が二岡の額をくすぐる。間近に見る彼女の瞳は、夜の闇よりも深く暗かった。
「えっと……ネーゼちゃん?」
「ねえ、にいさん」
「は、はいっ」
「わたし、人から直接、たくさんの血を飲むのはとっても久しぶりだったの。多分、800年ぶりね」
「へ、へえ。それで?」
 悪い予感に震えながら、二岡は次の言葉を促す。
「貴方の血、やっぱりとっても美味しかったわ」
「それはどうも……」
「あまりにも美味しかったから……我慢できなくなっちゃった」
「………………」
 二岡はもう、言葉が出なかった。冷や汗がどんどんわき出てくる。
 可愛いなりをしているが、やっぱり彼女は吸血鬼なのだ。
 一難去ってまた一難という言葉は、この瞬間のために生まれたのだろう。
「大丈夫よ……わたし、人を吸い殺した事無いから」 
 ゆっくりとのど元に近づいていくネーゼの唇。
「うっ、うわっ、うわああああー!!」
 こうして、夜明け前のハンター本部に二岡の悲鳴が響いたのだった。 







「失礼します。ボス。今さっき、96号経由で23号の有休届が届きました」
「ほう、珍しいな。理由は?」
「出血多量です。今、輸血を受けているところですね」
「……。何があったか知らないが、あいつも最近はいろいろ大変みたいだな。それで、ほかには?」
「はい。1号が引きこもりました」
「………………」
「あと、6号が朝から公園で黄昏ていますし、10号は修行の、19号は巡礼の旅へと立ちました。それと28号は恐ろしいペースで甘味を消費していますね」
「……。理由は?」
「夢見が悪かったそうです」
「解った。全員今すぐここへ出頭させろ。福祉センターでボランティア活動させてやる」


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