ハンターシリーズ145
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朝.六時三十分. 二岡が目覚めたら,枕元に小箱が置いてあった. 掌サイズだが上等な木箱のようだ.小箱の上には手紙があって,どうやら自分宛らしい. 少々気味が悪い.鍵は閉まっていたはずだったのに,一体何者が. しばし悩んだが,二岡は結局,手紙を読むことにした. 「うっ」 手紙を開いたら凄い達筆で,思わず怯んでしまった.しかしがんばって読み進めてみる. 内容は,まとめると概ね以下の通りだった. 拝啓,二岡様.いつもご迷惑をおかけしております.その詫びと言っては何ですが,わたくしの発明品を送らせて頂きました.珍しく失敗せずに出来た代物で,飲み干すことで,理想の姿になれるという飲み物です.どうかお納めください.シチリより. 「シチリさんからだったのか……」 二岡は,この小箱の主が判明してほっとした.シチリさんというのは,二岡の知る人物……というか吸血鬼である.とても美人で和風でボインな自称発明家だ.彼女の発明する物はどれも変で,二岡はそのことを身をもって知っている.手紙にわざわざ『珍しく失敗せず』と書いてあるだけあって,たいていの場合は失敗作だが,今回は成功したらしい.そしてそれを,これまでの詫びとして送ってきたと言うことらしい.律儀なものだ.出来れば今後,その迷惑度を下げて貰えるとありがたいが,きっと無理な話だろう. 「理想の姿か……」 二岡は小箱を開けてみた.するとそこには,よくあるドリンクの小瓶が鎮座していた.コルクのふたがしてあって,中身もちゃんと入っている.これを飲み干せばいいのか. 「理想の姿か」 同じ事を呟いた. 普通ならば,眉唾物と切り捨てるところだ.しかし,これを制作したのはあのシチリである.科学では解明できない存在が作り出したドリンクだ.きっと,効果はあるのだろう.実際,二岡はシチリの作り出したカツラのせいで性転換までしているのだ.理想の姿になれるドリンクが作れても,何一つおかしくない.シチリとは,それだけの力を持つアイテムを制作できる吸血鬼なのだ.聞く所によると,魔界では名工で通っているらしいし. 「うーん」 二岡は頭をひねった.さて,これを一体どうしたものか. 「あー…….まあ,まずは朝食かな」 寝起きで回転しない頭を使うより,食事を取ってしゃっきりすることの方が先決だろう.そう結論付けると,二岡は,着替えを開始した. それから顔を洗って…………. 歯を磨いて…………. それで,朝食を摂った後になって. 「ん?」 お腹もふくれて,頭もはっきりしたところで,ようやく二岡は,手に入れたドリンクのすごさに思い至った. 「これって……すごいんじゃ……」 ポケットにしまい込んだ小瓶にそっと触れて考える. たとえば,華代被害にあったとしよう.普通ならば,もう元には戻れないだろう.それはこの本部内にいる半田姉妹を見ればよく分かる.なんかもう運命的に無理っぽいのだ.しかし,これがあれば問題ない.元の姿に戻ることが出来る.つまり,多くのハンターが抱えている恐怖が払拭されるのだ. 別の使い道もある. 事故で手足を切断する羽目になったら.あるいは重病を患ってしまったら.ドリンクを飲むことで,五体満足の健康体に戻ることが出来る.生きてさえいれば,元の状態からリスタートが叶うのだ.すばらしい. 遙か未来,おじいちゃんになってから飲めば,若返ることも可能だ. もちろん,別の誰かになることも出来る.でも常日頃ハンターとして活動し,自分が自分であることのありがたさを知っている二岡は,ほかの姿になるという考えは持たなかった. なんにせよ,夢の薬であることは間違いない. 「すごい.すごいぞっ!」 興奮してきた二岡は,今にも小躍りしそうな足取りで廊下を進んでいった. すると,向こうからよく知った顔が歩いてきた. ハンターの大先輩,いちごである.彼女は今日も愛らしい顔をきりりと締めて,颯爽と歩いていた.当人はめいっぱい男らしいところを見せようとしているようだが,逆に女性として美しく見えてしまっている.そう,彼女の外見は美しい少女であった.凛とした美少女はとっても魅力的であると相場が決まっているのだが,それを当人に言うと怒るので,二岡は指摘しないことにしている. 「なんだ,何か嬉しいことがあったのか?」 よほどにやけた顔をしていたに違いない,二岡をちょっと気味悪そうに見つめつつ,いちごが問いかけてきた. 「え,ああ,はい.実はですね,思いがけないアイテムを手に入れたんですよ!」 浮かれた二岡は,よせばいいのに自慢げにそう言った. 「アイテムねえ.いったい何なんだ?」 「はい.ここだけの話なんですが……ごにょごにょ」 「…………なん……だと……?」 耳元で囁かれたいちごは,驚愕に目を見開いた. 「もう一度言ってみろ」 「はい.ですから……ごにょごにょ」 「……おい.それは本当か?」 「はい」 にこにこしながら,二岡は頷いた.それに対して,いちごも大きく頷いてみせた. 「な……る……ほ……ど……」 更に何度も頷く. 「なるほどなるほど…….ところで二岡.物は相談なんだが……」 「はい?」 「そいつを俺に譲ってくれないか」 いちごは笑顔だった.しかしそれは,凄絶な笑顔であった. 「……えっ……えっ?」 「譲ってくれないか」 「えっとその……」 ここで二岡は,やっと自分の失言に気が付いた.相手は華代被害を受けた半田姉妹の筆頭である.理想の姿になれるドリンクと聞けば,食いついてくるのは自明の理であった. 「なあ……二岡……」 いちごは,笑顔のまま二岡に迫ってきた. 「そのドリンクを……俺に譲ってくれないかなあ……?」 「あ,しかしその.これはですね……」 じりじりと後退する二岡.その分前進してくるいちご. 「…………」 もう,いちごは何も言わなかった.美しい顔に,恐ろしい笑みを浮かべたままゆっくりと寄ってくる. 「あー,あ,あの.えっと」 「…………」 「ごっ.ごめんなさいっ!」 二岡は逃げ出した. 「まてこらっ!!」 いちごはもちろん,追いかけた. かくして,二岡の逃避行が始まった. 「なあ〜……二岡〜……まあいいからさあ〜……一度止まれや〜」 「怖いっ! 怖いですよ先輩!」 廊下をひたすら全力疾走する二岡に対して,いちごは余裕そうだった.さもありなん,身体能力はすべていちごの方が上なのだ.そもそも二岡は,体育会系の部活に入っていたのは中学生までで,それからは文化系で大学に上がってからは滅多に運動をしなかった.だから長距離を走りきるだけの体力を持ち合わせていないし,足の速さも平均的だ.それに比べていちごは見た目こそは小柄な女の子だが,その実力は優秀な軍人に匹敵する.持久力もあるし筋力もある. この勝負,このまま行けば二岡の負けに終わるのは明白であった. しかし幸か不幸か,このおいかけっこの転機となりうる人物が二岡の目に映った. 「りく先輩!」 二岡はうさ耳の幼女を発見すると,彼女に向かって駆けていった. 「ん? なんだお前ら.千景達のまねごとか?」 自分の背中に隠れて息を整える二岡と,凄い笑顔のいちごを交互に見つつ,りくは首をかしげた. 「りく…….すまないがそいつを引き渡してくれないか?」 「はあ?」 いちごのただならない様子に,りくは眉をひそめた. 「おい二岡.お前,いちごを怒らせるようなことしたのか? だったらちゃんと謝った方が良いぞ」 「いや,違うんですりく先輩……その」 言い訳をしようとして,二岡はふいに言葉を切った. 彼の脳裏に,ある考えが浮かんだからだった.それは恐ろしい思考,自分がより不利な状態になりかねない,ギャンブル的思考だった. 「実は……」 「うん?」 きょとんとするりくの顔を見て,二岡は即断した. 「実は俺,飲めば理想の姿になれるドリンクを手に入れたんです!」 「なん……だと……!?」 びくりと体を震わせて驚きを露わにするりく.それを見て,いちごはあからさまに舌打ちをして見せた.そんないちごに,りくは確信したらしい.据わった目を二岡に向けてきた. 「じゃあ本当なんだな?」 「ええ.それで今,いちご先輩に追われているんですよ」 「ほう.で,それは今どこに?」 「実はポケットに入ってたりして」 見てみると確かに,二岡のズボンのポケットあたりに不自然な膨らみがあった. 「なあ,二岡.物は相談なんだが……」 「あっ,待てりく! 先に目をつけたのは俺だぞ!」 「ふっ,こういうのは早い者勝ちなんだぜ」 「りく……」 にらみ合う二人.その隙に二岡はそっと,そっと後ずさりして距離を稼ぐ. 「悪いがドリンクは俺がもらう」 「渡さないぜ」 「どうかな」 「……」 「……」 「…………ん?」 「あっ」 二岡が10メートルほど下がったところで,いちごとりくは気づいた. 「てめっ」 「まてっ!」 そんな二人の声を背に受けつつ,二岡は再び駆け出した. 自分と,彼女たちの能力差から考えて,これは奇跡的なことなのだろう. 自販機のすぐ側の物陰に潜み,息を整える二岡は思った. 彼は以前,千景から人から逃げる際の極意みたいな物を教わっていた.千景というのは,四六時中とは言わないが数日に一回は銀髪の少女に追いかけ回されている少女で,逃げることにかけてはベテランなのである.そんな彼女から,障害物の利用法や,隠し通路の存在を聴かされていたのだ.それらを駆使することで,二岡はいちご達から逃げ切るという不可能を成し遂げたのだ. 「やれやれ……今日はついてないぜ」 ハリウッド映画の主役みたいな事を呟きつつ,二岡は近くの空き瓶入れの中を探った.そして目当ての物を見つけ出すと,懐の内ポケットにしまった.それから周りを警戒しつつ,物陰から出た. 壁伝いに,足音を殺して歩く二岡は,端から見れば不審者だ.そんな怪しい二岡に,声をかける者がいた. 「よう,二岡」 「あ」 ナースルックの女性が二人.さつきといづなである. 「何だよそんなこそこそして」 「いや,ちょっと追われてて……」 きょろきょろしつつ答えると,さつきはにやりと笑った. 「そうかい.でさあ,二岡……」 「ん?」 「お前,良い物持ってるんだって?」 「!?」 二岡が驚き飛び退こうとするのと,いづなが抱きついてくるのはまったく同時であった. 「うっ! 放せ! 放すんだ!」 「悪いね二岡」 真正面から抱きついたいづなは,あまり悪いと思ってなさそうな顔でそう言った. どうやら,二岡を見失ったいちご達は,ほかのハンターを使って人海戦術に出たらしい.これで,半田姉妹のほとんどを敵に回したと言って良いだろう. 「よくやった! よーし.そのまま押さえとけよ!」 手をにぎにぎしながら近づいてくるさつき. 「ちくしょう! やめるんだ! 気持ちいいじゃないか! うっ,鼻血が出そうだ!」 二岡は,女性に対する免疫が少ない男であった. 「おまっ,何言ってるんだ!」 いづなが抗議する.しかしこの場合は二岡に分があるだろう.なにせ,いづなは魅力的な外見の女性だから. 「ははは,いい女に抱かれてよかったな,二岡.んーと,これかな?」 「そっちは違うぞ!」 「え,違うの?」 「ドリンクは上着の内ポケットだからな!」 もちろん嘘なのだが,堂々と言い放つ二岡に,さつきは納得してしまった. 「そうか.よしいづな.放せ」 「え,放したら逃げちゃいますよ先輩」 「すぐ捕まえればいいだろ? あ,それより,その状態で後ろに回れば良いか」 「はいはい.解りましたよ」 渋々といった感じで,いづなは僅かに腕の力を抜いて,二岡の背に回ろうとした.しかしそれが二岡にとってチャンスだった. 「隙ありー!」 二岡はいづなの進む方向に思いっきり体をひねり,彼女を床に倒した.もちろん,二岡も一緒になって倒れる. 「うっ,うわー! なにをするんだ二岡! 考え直せ!」 「に,二岡がいづなを襲っている!? なんてこった……なんてこった!」 うろたえる看護婦二人. 「いや襲わないから! 俺,紳士だから!」 そう叫びつつ,二岡は立ち上がって逃走を再開した. 「まったく…….変な噂が立たなきゃ良いんだけど……」 看護婦をまいたところで,二岡は休憩のために,壁により掛かった.すでに体力は僅か.足がガクガクしていて,お腹が痛い.朝食を摂ってまだ間もないのに全力疾走を続けたからだ. 二岡はさっと息を吸い,時間をかけて息を吐いた.テレビによると,こうするのが一番良いらしい.深く息を吸うと,過呼吸に陥る事があるそうだ.それを繰り返していると,だんだん胸の鼓動が落ち着いてきた.しかし足の痛みは残っている.乳酸のせいだ. こんな事なら,トレーニング室でちゃんとトレーニングしておくんだった. そんなことを考えながら,また移動するために一歩進んだその瞬間. どごん! 頭のすぐ横に,何かが突き刺さった. 頬を引きつらせながら目線を動かすと,そこにはなんと,青龍刀が突き刺さっていた. 「こっ……これは! まさか……ムイちゃん!?」 「ご名答ネ.しかしオマエ,この期に及んでちゃん付けとは言い度胸してるヨ」 魅惑的な肢体をチャイナドレスで覆った女性がそこにいた.ムイが手にした紐を引っ張ると,それにつながっていた青龍刀が彼女の手元に戻った. 「君もドリンクを狙っているのか!」 「もちろんね」 にやりと笑うムイ.二岡は緊張で口の中が乾くのを感じた. 彼女のことはよく知っている.二岡の相棒は,普段は空奈という少女である.しかし,危険度の高い任務をこなす際は,彼女の替わりにムイと組むことがままあった.だから,二岡は彼女の力を知っているのだ.そして彼女は,二岡の力を把握している.まともにやり合ったら勝機はない. 「くっ……」 「さ.あきらめてドリンク渡すネ.そしたら,オマエの首と胴体がお別れすることも無くなるヨ」 恐ろしいことをサラリと言ってくる. 「ど,ドリンクを渡せばお別れしなくて済むんだな!?」 「約束は守るネ」 満足げに頷くムイ.しかし二岡はこういった. 「だが断る」 「…………そんな格好つけても格好良くないヨ?」 「そうかい?」 一転不機嫌顔になるムイに対して,二岡は不敵な笑みを浮かべた. 「でも,やっぱりそう簡単には渡せそうにないよ.だってほら,後ろ」 「!?」 ムイは振り向かずに強く飛び退いた.瞬間,今ムイが立っていたところを,無数の竹鞭が通過していった.もしも振り向いていたら,あの竹鞭を避けることは出来なかっただろう. 「……長かった」 その竹鞭の主,巫女服の少女が呟いた. 「ここへ来てどれくらいが経っただろう.ようやく,この日が来たんだ……」 「みこ…….邪魔するか」 「それはこっちの台詞ですよ,ムイ先輩」 鬼のごとき形相で,みこは竹鞭から鉄扇に持ち替えた.彼女は普段はおどおど控えめな感じに見えるが,その実体はとっても過激で,64号を袋にした事件はあまりにも有名である. 「二岡先輩のドリンクは俺が貰う」 「ふん.小娘にワタシを倒せるか?」 二人の姿がかき消えた. と思ったら,がががががんと剣撃音が鳴り響く.外見からは思いも寄らない速さで打ち合っているのだ. 二岡にとってはチャンス.そっとその場を立ち去ろうとして……. どどん.と,床に穴が空いた. 「お待ちください,二岡様」 「うっ!」 何時の間にやら,二岡の前に立ちふさがっている二つの影. どう見てもお嬢様と執事.最近入ってきたばかりの新人ハンターとその執事である. 「君は……セバスチャン!」 「いえ.瀬場です」 優雅にお辞儀をする執事.二岡は舌打ちをした.彼は優雅ななりをしているが,あああ見えて猛者だ.もちろん,二岡の敵う相手ではない. 「お前だな.ドリンクを持っているのは.さあ,潔く渡すがよい.さもなくば……,トラ!」 「はい,お嬢様」 瀬場は,指先を二岡に向けた.彼は,指先から気の弾を発射することが出来るのだ.先ほど床に穴を開けたのも,その力である. 「くっ,レイ○ンか!」 「いえ.タ○ガーショットですが」 「……ドリンクはここにある」 二岡は懐から小瓶を取り出して,ちらりと見せた. 「そうですか.ではお渡しください」 「いいのか? これを使えば,お嬢様がおぼっちゃまになってしまうんだぞ」 「うっ!?」 瀬場は動揺した.それを見たお嬢様は激高する. 「こ,こら馬鹿! そのためにここに来たんだろうが!」 「し,しかしお嬢様……私は正直,お嬢様の方がこうなんというか,仕え甲斐が……」 「しかしもくそもねえ! てかお嬢様って言うな馬鹿!」 「ああっ,お嬢様.愛が,愛がいたい」 お嬢様にげしげし蹴られる執事は,まるで痛がっておらず,むしろ嬉しそうだ. こんな事をしていたせいか,今まで激闘を繰り広げていたムイとみこが,此方に気がついた. 「手間取っている間に新しいのが来てしまったネ」 「……くっ」 二人は一旦離れると,距離を保ちながら武器を構えた.邪魔者をやる気満々だ.それを敏感に感じ取った瀬場も構えを取った.こうして期せず,三すくみが出来上がった. 二岡はもちろん,逃げだそうとした.しかし出来ない.お嬢様が見張っているからだ.だが二岡にはこれを切り抜ける自信があった. 「えっと……みみこちゃんだったっけ?」 「違う! 良磨だ!」 「そうですよ.お嬢様は美奈子お嬢様ですよ」 即座に訂正するお嬢様と執事.かすかに,ムイとみこの視線も二岡に向かう. 「ああそうだった.君,これがほしいのかい?」 懐の小瓶を取り出してぷらぷらさせると,お嬢様はこくこくと頷いた. 「なんだ.渡す気になったのか.庶民にしては物わかりが良いな」 「じゃああげるよ.ほらっ!」 二岡は小瓶を投げ飛ばした.ムイとみこと瀬場が作り出すトライアングルのちょうど真ん中に. 「ぬわー! トラ!」 「はいお嬢様!」 「こら二岡オマエなにするか!」 「俺のドリンクー!」 四人が一斉に走り出す. 果たして,小瓶を手にしたのはムイだった. 「やった! 取った! これで……これで?」 喜んだのもつかの間,ムイは気がついた.この小瓶は,中身が空っぽだ. 「二岡先輩……ま,まさか!」 「ははは!」 二岡は高笑いしながら背を向けて逃げているところだった. 「それは偽物! フェイク! 瓶かごから取り出したカラ瓶さ!」 かけてゆく二岡. 「いやあ,してやられましたねお嬢様」 「やられましたじゃねえ!」 慌てて四人は,二岡の背中を追って走り出した. それから30分が立った. その間,二岡は走った.走り続けた.今までで,最も長い時間を走っている気がする.重い体を無理矢理に動かしつつ,二岡は人生を振り返った.思えば,平坦な道のりだった.それなりに力は出すものの,死力を尽くした事は一度もなかった.マラソン大会でも,友人と笑いながら走っていた.挫折はなかったが,達成感を得たことも無かった,そんな思いが胸をよぎる.だからなのだろうか,周りから平凡な人間と呼ばれるようになってしまったのは.でも今は違う.本当に,全力を出している.心の底から活力が沸いて出て,動かないはずの体を動かしている. 「まぁぁぁぁてえええぇぇぇぇ」 「に〜〜〜〜おか〜〜〜〜〜」 「そぉいつぅをおよぉこぉせええええええ〜〜〜」 そんな声が二岡の背中に届く.いつの間にか,数が増えている.一体何人だろう.振り向いて数えたくなった. だが二岡は走った. 走って走って,いったい何のために走っているのか解らなくなってきたところで,自分が行き止まりに追い込まれたことに気がついた. カフェだった. いつも食事を取っているハンターカフェ.ウエイトレスをしている散が,不思議そうに二岡の顔を見つめていた.どうやら,ドリンクのことは知らないらしい. 「追い込んだぞ……二岡……」 いちごが言った. 「観念するんだな……」 りくが続けて言う. ほかにも年貢の納め時だとか聞こえてきたが,どれもこれも高く澄んだ女性の声ばかりだ.声に違わず,みな美しい顔立ちの女性ばかりだ.かつて,これほどの数の美少女に追いかけられた人間が,どれほどいるだろうか.二岡は自嘲ぎみに微笑んだ. 手はもう無い. 打てる手はすべてうち尽くした. それにつけてもと,二岡は思う. こんな小瓶一つにやっきになっている.自分も,こんなのにこだわらず,誰かに渡せば良いではないか.活用してくれるのなら,誰が使ったってかまわないのでは. でもだめだ,と,頭を振る. これが使用できるのは一人だけなのだ. 戻れるのは誰か一人だけなのだ. 「………………」 あのとき,いちごにドリンクのことを話していなければ,こんな事にはならなかったのに.せっかく送られてきた詫びの印だというのに,こんな結果では送り主も不本意だろう. 愚かな自分に今度こそ自嘲する. そして二岡は決断した. ズボンのポケットから本物の小瓶を取り出しながら,思う.もっと早くからこうしておけば良かった. 「なんだ,とうとう渡す気になったのか?」 「いいえ,いちご先輩.これは渡せません」 「まだいってやがんのか……」 「はい.渡せません.だから……こうします」 二岡は小瓶を振りかぶった.それを見て,いちごがはっとする. 「お前,まさか!」 「ごめん,シチリさん!」 「みんな! そいつに瓶を割らせるなー!」 どっと押しかけてくる半田姉妹. それを尻目に,二岡は小瓶を床にたたきつけて…………. そして,世界に光が満ちた. 「……え?」 朝が来て,二岡は目を覚ました. 体を起こし,頭を掻く. 「あれ? もしかして……」 朝日の差し込む窓を見つめながら,二岡は呟く. 「夢オチ? マジで?」 壁に掛かっている時計を見ると,六時三十分.どう考えても朝だ. しばらく二岡はぼーっとしていたが,ふいに笑い声をあげた.その声はやがて大きくなり,終いには腹を抱えて大笑いする. 「うっ.げほっ! ごはっ」 笑いすぎてむせてしまった. それにしてもと,二岡は考える. あれだけがんばって走ったのに,それが夢だったとは. 夢にしてはリアルだったが,時にはそんなこともあるのだろう. 「まったく……自分も大した想像力だな」 肩をすくめてから,伸びをする.夢の中でがんばったからなのだろうか,気分が良い.今日はよい仕事が出来そうだ.まずはそう,顔を洗って着替えをして.いつも通りカフェで朝食を取ろう.そんなことを思いつつ,二岡はベットから降りようとして……. それが目の端に映った. 二岡は凍り付いた. 「え?」 目に映ったもの.それは手紙と,掌サイズの上等な木の小箱であった. |
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