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ハンターシリーズ146
『ハンター三色しょーと』

作・てぃーえむ

 

 ぱちん.
 休憩室に響く音.
 沢田の目の前には将棋版が置かれていて,そこにはいくつもの駒があった.
 そう,将棋を指しているのだ.
 もっとも対戦しているのはいちごと空奈.沢田はそれを見学しているのだ.しかしよく分からない.元々,将棋には詳しくないのだ.
「これ,どっちが勝ってるのかな?」
 沢田は,隣に座っている水野に尋ねた.
「状況は互角に見えるんだけどね……」
 水野はそう答えながら,いちごの顔を見た.それにつられてみると,いちごは苦い表情だった.腕を組んで唸っている.それに対して空奈はいつも通りのぼんやりしていた.顔色だけで判断すると,明らかにいちごが押されている.
 長考するいちごの顔を見つつ,お茶をすする.さて,何時になったら動くかな.
 そう考えたとき,開けっ放しのドアから子供が二人飛び込んできた.
 千景と疾風.
 追いかけっこの最中らしい.とたとたと室内を駆け回っている.
「あの子達も飽きないよねえ……」
 沢田が呟くと,それに水野が反応した.
「あれ,一応はルールがあるらしいわよ」
「へえ,そうなの?」
 ぼんやりと追いかけっこを見つめていた空奈に尋ねてみる.すると,彼女はこくりと頷いた.
「どんなルールなの?」
「30分以内に黄路さんが千景を捕まえられたら黄路さんの勝ち.黄路さんが千景を見失うか捕まえることが出来なかったら千景の勝ち」
「それって結局普通の鬼ごっこじゃ」
「そうね.でも,まだルールがあるの……」
 ぱちん.
 ここで,いちごがようやく次の一手を打った.
 空奈はちらりと盤面を確認すると,即座に歩に触れて一マス前進させた.それを見たいちごが,また難しい顔をする.
「黄路さんは全力で動くことが出来ないの.元々,あの子の身体能力は千景を圧倒しているから,本気を出したら勝負にならないわ.だから,一定以上の速さで動くことは出来ず,動いた場合は即刻負けになる.もちろん武器は無しよ」
「ははあ……」
 沢田は,解ったような解らなかったような声を漏らした.
「千景は余裕そうに見えるでしょう?」
「うん.なんか楽しそうだよね」
「ああ見えて必死なのよ.黄路さんは体力に余裕があるけど,千景にはないから.相手の動きを読み損ねたら,間違った動きをしてしまったら,すぐに捕まってそれで負けが決まってしまう.そして30分という時間は,千景が最善を尽くすことで逃げ続けられるギリギリの時間.それを超えたら,確実に詰んでしまうの」 
「へえ〜」
 改めて千景を見てみる.でも,やっぱり余裕そうにしか見えなかった.とてもギリギリのやりとりをしているようには見えない.そしてその余裕そうな表情をしたまま,千景は廊下へと飛び出していった.それを追って,疾風も姿を消す.
「実はね.この勝負も,あのおいかけっこと同じなの」
 休憩室に静寂が戻ってから,空奈は話を将棋に移した.
「本当は私も必死なのよ.いちごさんは強いから.何とかかわしていたけれど,今,あの場所にあれを打ち込まれたら,私は負けてしまうの」
「え? ……うーん.そうは見えないんだけどなあ……」
 沢田の目には,空奈の方が優勢にしか見えない.でも,水野は違うらしい.
「そんなこと言っちゃって良いの?」
 なんてことを言って,すぐに表情を変えた.
「あっ.もしかして……」
「えっ.なになに?」
 訳が分からず,沢田は水野の肩を突っついた.
 水野は黙っていちごに目線を送った.いちごの顔を見ろと言うことらしい.
「?」
 指示に従ってみると,果たして,いちごは先ほどよりも深刻な顔になっていた.
 これを見てようやく解った.空奈は心理攻撃を仕掛けたのだった. 
 沈黙が訪れた.ただ,時計の針が進む音だけがかすかに響く.いちごの次の一手を待っているのだ.
 沈黙と妙な緊張感に耐えられなくなって,沢田は水野の耳元で囁いた.
「ねえ,本当にいちごちゃんのこの一手で空奈ちゃんが負けちゃうの?」
「……本当よ.いちごちゃんがあれに気がつけばいちごちゃんの勝ち.気がつかなければ空奈ちゃんの勝ちよ」
 水野は,盤上で繰り広げられる戦いを冷静に分析することが出来ているらしい.
 沢田は,固唾を飲んでいちごの指す最後の一手を待った. 
 いちごは悩みに悩んで,ようやく飛車を手に取った.そしてそれを2マス先に進めて,ぱちん.
 いちごは,きっ,と空奈を睨んだ.これでどうだ,ということらしい.
 沢田はきょとんとして,水野は気まずそうに頭を掻いた.
 そして空奈は,ため息をついた.これまでの緊張が抜けたと言わんばかりの,安堵の吐息だ.もっともぼんやりした顔は相変わらずなので,本当に緊張していたのかどうかの判断が難しい.
「いちごさんらしい手だとは思うわ.でも,残念ね」
 空奈は,持ち駒から桂馬を選び手に取ると,ぱちん.
「これで詰みよ」
「うぐっ」
 声を詰まらせ肩を落とすいちごを見て,ようやく沢田にも理解できた.
「空奈ちゃんの勝ち,かな」
 それが決着の言葉になり,張りつめていた空気は一気に緩くなった
. 「……まいった……」
「ま,良い勝負だったのは確かなんだから,そう気を落とさないでね」
 落ち込むいちごの肩を,水野はぽんっと叩いた.それに続いて沢田もいちごにお茶を差しだして苦労を労う.
「正直良くわかんなかったけど,次,がんばろうよ」
「ああ.そうするよ」
「うんうん.はいっ,空奈ちゃんもどうぞ」
 続いて沢田は空奈にもお茶を差し出す.
「……ありがとう」
 空奈はお茶を受け取ると,ふと廊下の方を見つめた.
「…………あの二人は……」
 ゆるんだ空気の中で空奈はぽつりと呟いたが,その声は誰にも届かず薄れて消えてしまったのだった.



 じり.じりじり.
 美風は薙刀を下段に構えつつ,疾風との距離を測っていた.
 大体三メートル半だろうか.その先で,疾風は模擬刀を正眼に構えている.表情だけ見るとどことなく不機嫌そうだ.しかしその構えに隙はない.力みもない.
「……」
 美風は動いた.静かに,一直線に突っ込んでいき,突きを繰り出す.直線的な攻撃は,もちろん簡単にかわされた.しかし攻撃はこれからだ.
「っりゃあ!」
 だんっ! 
 強く床を蹴る音がトレーニング室に響き渡る.
 黄路流の特殊な歩法により速さを保ったまま敵の周囲を高速旋回,疾風の背面を取って刃を振るう.
 手応えはなかった.
 疾風は一歩前に進み出て攻撃をかわしたのだ.追撃を放つ頃には,疾風はすでに美風の方を向いていた.
 ガッ.
 重い音と手応えが美風の腕に響く.追撃ははじかれたのだ.それでも攻撃は終わらない.はじかれた際の衝撃に逆らわず,むしろそれを斬撃に上乗せして,疾風の首を狙う.
 ボヒュン.
 空気の壁を文字通り切り裂く音.真空の刃を纏わせたこの攻撃は,生半可な防御では防ぎきれない.並の相手ならば,これで首を落とされて終わるだろう.しかし相手は疾風であった.
 きんっ,と音がして,薙刀が払われた.此方の攻撃が届く前に,模擬刀で真空の刃ごと打ち払われたのだ.
 瞬きする間もない,そんな僅かな時間で疾風は,薙刀の間合いの更に内側,刀の間合いに飛び込んできたのだ.動きは見えなかった.その音も気配も感じることはなかった.
 凪の一閃.黄路流の秘技の一つである.
「っ!」
 美風は薙刀の柄のちょうど中当たりを握ると,バトンを振るうかのように振り回した.平たく言えばだだっこ攻撃.無茶苦茶だが,それ故に対処に困るという攻撃だ.  疾風は元々追撃を放つつもりはなかったらしい.僅かに口元をほころばせながら後退した.
 十分に間合いを取ったところで,美風は再び下段に構え直した.
 初撃を放って今まで,僅か数秒の出来事だ.
 一息ついて,美風は改めて疾風を見つめた.
 自分によく似た銀髪の少女.整った顔は凛としていて,将来はさぞ美人になることだろう.しかしあれは,兄だった.どう見ても姉,いや妹にしか見えないが,兄だった.なんでも,真城華代という女の子によってあの姿にされたらしい.しかもその原因は…….ここで美風は僅かに眉をひそめた.その原因は何度か聞かされていたが,どうにも納得がいかなかったのだ.
 それでも,これを利用すれば,あの忌々しいほどに強い兄に一矢報いる事が出来るかもしれない.美風には,なんとかしてあの兄に勝ってみたいという思いがあった.あの姿になった兄と再会して以来,機会がある度にこの施設へ足を運び,試合を行っていたが,未だに一太刀浴びせることが出来ないでいたのだ.
 だから,彼女はこう問いかけることにした.
「ねえ,兄さん.今日もおいかけっこしたの?」
「……おいかけっこじゃない.れっきとした真剣勝負だ」
 疾風はちょっとむっとして,そう言い直してきた.
「まあそう言うならそれでいいけど……今日の勝敗はどうだった?」
 すると疾風はばつの悪そうな顔になった.
「………………負けた」
「はあ……,兄さんでも負けるんですねえ.千景ちゃんでしたっけ.そんなにも強いんですか?」
 言いながら,黒髪の少女の顔を思い出す.ちょっと前まではメディアにたびたび顔を出していた探偵少女.気まぐれな黒猫のような少女で,よく疾風とじゃれ合っている.でも彼女は,身体能力から見れば普通の女の子のはずだった.少なくとも,自分なら彼女を倒すのに5秒もかからないだろう.そんな女の子が,ただのおいかけっことはいえ疾風に勝利することが出来るのだろうか.確かに,ちゃんと勝負になるようにとルールは設けられている.それでも,体力に勝る疾風の方が有利のはずだった.
「……強い」
 疾風は悔しそうに言った.
「あいつの強さは俺とは別の所にあるんだよ」
「だから勝ちたいの?」
「そうだ」
 疾風は肯定したが,それだけとは思えない.美風はにやりと笑った.
「ならなんで牛乳とか飲んでるのかしら?」
「うぐっ」
 途端,疾風は喉を詰まらせた.
「なんか会うたびに女の子っぽくなってるし」
「のあっ」
「ほかのことでも対抗しようとしてるみたいじゃない.胸の大きさとか」
「ぐはっ」
 とうとう疾風の足下がぐらついた.こちらの予想以上にダメージがいったらしい.普段では決してみられない疾風の様子に,美風はちょっぴり意地悪な快感を覚えた. 「私はそう言ったことに詳しくはないんですけど…….そんなにも大きい方が良いのでしょうか?」
「お,お前,自分が大きいからって……!」
 ほんのり頬を染めながら叫ぶ疾風は可愛らしかった.妹をからかう姉の気持ちが分かった気がする美風は,更に続けた.
「そうなんでしょうか.そういうことはあまり気にしない性分なので…….でもよくよく考えてみれば,中学生くらいからそれなりの大きさがあった気がしますね」
「うううっ……」
 自分の豊かな胸に手をやりながら言ってやると,疾風は悔しそうに歯ぎしりした.ちょうど疾風は中学生くらいの身体年齢であった.
「千景ちゃんは,確かに大きいですよね…….少なくとも兄さんの数倍はありますよ.仕草も女性らしいというか」
    「み,みかぜっ,さては俺の動揺を誘って……」
「でもね,私は……」
 今にもかみついてきそうな疾風の台詞を遮るように,美風は言う.
「疾風ちゃんの方が可愛いと思いますよ」
「えっ……」
 疾風の頬に朱がさした.
「隙ありっ」
 べちん.
 薙刀が,疾風の肩に炸裂した.
「あ」
 呆然とする疾風に,美風は笑う.
「ふふっ.ようやく一本とれました」
「お.お前,卑怯だぞっ! あんな戯れ言で!」
 くってかかる疾風に,美風は真面目な顔をして言う.
「可愛いというのは本気で言ったんですけど」
「……」
「隙ありっ」
 べちん.
「二本目も頂きです〜」
「ぐわ〜〜〜! おまえってやつは〜!」
 2度もしてやられて頭に血が上ったのか,疾風はやたらめたらに模擬刀を振り回し始めた.
 それに対して,笑いながら逃げ出す美風.
 こうして,兄妹……いや,姉妹のおいかけっこが始ったのだった.



 ハンター本部の一角にて,佇むお嬢様が一人.
 そのお嬢様,美奈子の前に箱があった.
 箱と言っても手で持てるサイズではない.二メートル以上はあろう高さの,でかいボックスだ.そのボックスにはボタンがずらりと横に並んでいて,はめ殺しになっているパネルの向こうには円柱形の物体と名札らしき物がやっぱり並んでいた.その物体はカラフルで,緑だったり真紅だったりする.お茶とか書いてあるので,察するにあの物体は缶詰であり,中には飲み物が入っているのでは無いだろうか.名札には,120円とか,たまに150円とか書いてある.謎だった.そもそもこのボックスは一体なんなのであろうか.
 美奈子は首をひねった.
 こんな時は執事に尋ねれば良いのだが,生憎彼は今,トイレ中である.
 きょろきょろ.
 辺りをうかがってみる.すると,窓際に置かれたベンチに寝そべる黒髪の少女の姿を確認することが出来た.眠っているのだろうか.
「おい.そこの少女」
 とりあえず控えめに呼びかけてみる.すると,少女は薄く目を開いて,青みがかった緑色の瞳を美奈子に向けてきた.
「一つ物を尋ねるが……,これは一体なんというものだ?」
「…………?」
 少女は小首をかしげた.ほんの数秒だけ考えるそぶりをしてから,猫みたいに伸びをしてゆっくりと起きあがった.そして立ち上がり,眠そうな顔でゆらゆらと美奈子の元へとやって来た.
「それで,これは何という物なのだ?」
 改めて尋ねると,少女は口を開いた.
「それは自動販売機ですよ」
「……自動?」
 自動に販売する機械ということか.しかし,何を自動なのか.その疑問が伝わったのか,少女は言った.
「自動に人をさらって,売りさばく機械です」
「じ,人身販売!?」
 美奈子は愕然とした.世俗には恐ろしいことも存在すると耳にしてはいたが,まさかこうも間近に脅威が潜んでいるとは思わなかった.
「そのボックスがぱかりと口を開いて,そこから無数の触手が飛び出してきて貴女を捕まえ,自動的に家に身代金を要求します.だから自動販売機」
「なんだって!」
 美奈子は慌ててボックスから離れた.その様子がおかしかったのか,少女はクスリと笑った.そしてあっさりとこう言った.
「まあ嘘ですが」
「えっ.うっ,嘘だと!?」
 なんと,騙されたらしい.美奈子は激高した.誉れ高き西園寺の嫡男たる自分を騙すとは.
「おのれ,この俺を西園寺良磨と知っての狼藉か!」 
 すると,少女は目を瞬かせた.一瞬何を言われたのか理解できなかったという顔だ.でもすぐに納得顔に変わった.
「りょうま? さいおんじ……ああ,そういえば…….いけませんね……どうにも頭の回転が遅くて……」
 そんなことを言いつつ,握り拳で目元をくしくしとこすった.どうやら半分寝ぼけているらしい.
 そんな少女の様子に,美奈子は気勢をそがれて冷静になった.それで,自分にこう言い聞かせる.どうやらこの娘は頭がはっきりしていないらしい.まだ子供だし,ここは年長者として寛容の精神を見せる場面だろう.
 うん,と美奈子は頷くと,胸を張って見せた.
「……まあ良い.許す.それよりこの自動販売機とやらはなんだ? 本当のところを教えろ.そうすれば先ほどの事,不問にしてやってもいいぞ」
 許すと言っておきながら,そうすれば不問にしてもいいとは,これいかに.言ってから気がついて,僅かに羞恥を感じたが,少女は気にしなかったらしい.懐から財布を取り出すと,そこから更に何かを抜き出した.そしてそれを美奈子に手渡してくる.
「なんだこれは」
 渡されたのは,100と書かれた銀色の丸い物一枚と,10と書かれた丸い物2枚だ.
「120円ですが」
「…………120円?」
 それで思い出した.
「そうか,これがいわゆる100円玉と10円玉.小銭と呼ばれるお金だな!」
「初めて見たのですか?」
「うむ」
 鷹揚に頷くと,少女は微笑みを見せた.
「なら使ってみてください」
「え.使う? どうやって?」
「そこ.投入口とあるでしょう」
「ふむ?」
 指示に従うと,確かにそう書いてある場所を発見した.その文字のすぐしたには,縦長の穴が空いている.
「そこにその小銭を入れてください.一枚ずつですよ」
「一枚ずつか」
 言われたとおりにしてみる.投入するたびに,ちゃりん,ちゃりんと音がして,全部入れ終わったとき,なんとボタンに赤い光が点灯した.
「な,なんだ.何故光っているんだ?」
「お金を投入し,光っているボタンを押すことで,その中に展示してある飲み物が購入できるのですよ」
 言われて美奈子は手をぽんっと打った.
「そうか,理解したぞ.この120円というのはこの缶詰の価格なんだな.この缶詰に対応したボタンを押すと,それを購入できる.そうだな?」
「はい.ではその緑茶を購入してみてください」
「俺がか?」
 ここへ来て,何故自分がこんな事をしているのか,これは本来自分がするべき事ではないのではないかという疑問が浮かんだ.しかしそれも,次の一言で吹っ飛んでしまう.
「おや,出来ないんですか? あそこを押すだけなのに?」
 意外そうな顔で少女はボタンを指さした.この程度のことも行えないなどいやはや西園寺の名折れですねと,表情が語っている.そんなように見えた美奈子は慌てて鼻を鳴らした.
「ふん! その程度,出来るに決まっているだろう.いいだろう.見ていろ」
 美奈子はボタンに,ちょっぴり震える指を近づけた.
 そして,ぽちっ.
 がこん.
 途端に何かが落っこちた音がした.吃驚して下をみると,取り出し口と書かれた所に,緑色の缶を発見した.おそるおそる手に取ってみる.するとそれは冷たかった. 「ご苦労様です」
 手を出している少女に,美奈子は素直にその缶を渡した.少女は缶を頬に当てて,気持ちよさそうに目を細めた.
  「……それで,その缶はどのようにして開けるんだ? 缶切は見あたらないが」
「こうするんですよ」
 少女は缶の頭を此方に向けた.そして,頭にくっついているリングを引き起こすと……,穴が空いた.彼女は起こしたリングを再び押して寝かせると,缶に口を付けて中身を飲み始めた.
「なるほど.ちゃんとタブがついているのか.よく考えてあるな……」
 感心しつつも,緑茶を飲む少女を見ているうちに,自分も何か飲みたくなってきた.しかし,まさかその緑茶を寄こせと言う訳にはいかないだろう.小銭があればいいのだが,美奈子はお金など持ってはいなかった.そういったものは,執事かほかの下々の者に任せっきりであった.
「……何か飲みたいんですか?」
 此方の様子に気がついた少女が問いかけてきた.
「う……うむ」
 ちょっと控えめに頷く美奈子.少女は再び財布から120円を取り出して,それを手渡してきた.
「どうぞ.お好きなものを」
「なんだ,俺自らやれと…………」
 少女の視線に込められた色が変わるのを見て,美奈子は慌てて言い直す.
「いや,いい! 解ったからそんな顔をするな! もちろんこれくらい自分で行える! 容易いことだ」 
 大仰に小銭を受け取ると,再びそれを自動販売機に投下した.
「何にしようかな」
 種類は豊富だった.左から煎茶,番茶,玉露,玄米茶,ウーロン茶,Dr.マックス茶,ダージリン,セイロン,ウバミルクティー,レモンティー……などなど.
「?」
 今,何かおかしな物がなかったか.目線を戻して,それを見つける.
「ドクターマックス茶って……なんだ?」
 一つだけ異彩を放っているそれを呆然と見つめると,少女が説明をしてくれた.
「有名な清涼飲料水と有名なコーヒーを掛け合わした様な味がするお茶ですよ」
「な,なんなんだそれは……」
 まったく理解の範疇を超えるお茶だ.一体どんな味がするのか.
 好奇心に駆られた美奈子は,その変な名前のお茶を購入した.
 ぽちっ.ごとん.
 取り出し口に落ちてきたそれを手に掴み,おそるおそるプルタブを明け,口を付けてみて…….
「……ごくん.……!?」
 想像を絶する味が,舌の上を駆け回った.
 理解を超えすぎて頭がフリーズしてしまった美奈子に,少女は別れの言葉を告げる.
「それ,癖になる人は癖になるらしいですよ.それじゃあ,私はこれで失礼しますね.ああ,その缶は飲み終わったら空き缶入れに入れてくださいね」
 飲み終わった緑茶の缶を,空き缶入れと書かれたボックスに放り込むと,彼女はゆらゆらと廊下の向こうへと消えていった.
「お待たせしました,お嬢様」
 少女と入れ替わるように,執事のトラが姿を見せた.
「お嬢様?」
「あ.ああ,トラか」
 声をかけられてようやく再起動した美奈子は,執事に向き直って胸を張って見せた.
「トラよ.俺は今日,自動販売機の使い方を知ったぞ」
「はあ,自販機ですか? お嬢様が?」
 首をかしげる執事に,美奈子は自慢げに言い聞かせる.
「そうだ.まだ二度しか使用していないが,なあに,すでにコツは掴んだ.小銭さえあればいつでも使えるぞ」
 トラは,さっと主人を観察した.お嬢様の手元には缶がある.誰かが買い与えたのか.いや,誰かが彼女に購入させたのだ.なにをするにも他人任せで,買い物一つしたことのない彼女に,自販機の使用法を教えた人がいる.一体どんな手を使ったのやら.
 トラは一つ頷いた.
「なるほど.それはよかったですね.では今度,小銭を用意しておきましょう.これでいつでも飲み物が買えますね」
「うむ.そうしてくれ.……それにしてもこのお茶はうまいのかまずいのか解らない味がするな.これが庶民の好む味なのか? うーむ……」
 眉をひそめながらも手元の飲み物に口を付ける美奈子に,トラは尋ねる.
「なんですかそれは」
「ドクターマックス茶というものだ」
 どう考えても変わり種の飲料だ.
「………….次は普通の紅茶にしましょうね」
「?」  
 きょとんとするお嬢様に,執事は困ったような微笑みを返した.


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