ハンターシリーズ150
|
|||
ハンター本部内に作られた、バー。 かつてそこは、つまらないことでケチケチする、ハンター組織を形容するようなバーだった。 しかし、こんな誰も集まらない、知っている者すら少ないようなバーに光を当てた人物がいた。 イルダ・リンカーン。このバーの数少ない愛用者の1人だ。 彼女は身銭を切ってバーの改装に取り組み、バーに活気を与えようとした。 その改装が終わり、明日から営業再開、というところで二岡達に招待状が届いたのだ。 二岡は、なぜ自分たちに? とは思ったものの、招待に応じることにした。 薄給の身でしかも給料日前、食事と酒をふるまうという申し出を断ることはできなかったのだ。 二岡が入ってまず気付いたのは、その内装が大きく変わっていることだった。 明かりがランプなのは変わらないが、ついているシェードはガレに変わっている。 カウンターの端に小さな花が一輪活けてあるが、そこに使われているのは間違いなくドームだ。 もともと6人ほどしか座れないカウンターしかなかった店内には、その幅と奥行きを活かして2人掛けのテーブルとダーツの設備が追加されている。 そしてテーブルの上の壁には小さな猫の絵、レオナール・フジタの…肉筆画だ。 改装を指導した人物の趣味と意欲に、二岡は舌を巻いた。 「ようこそいらっしゃいました。どうぞ。」 声をかけてきたのは入田利康、イルダ・リンカーンの元の姿であり変身した姿、そして今夜の招待主だ。 二岡は勧められるままにテーブルに座った。入田もそれに続く。 二岡は、臼井さんはどうするんだろう、と思ったが、臼井は1人でカウンターの端に座ったようだ。 「それではまずこちらを。 今夜は全て、入田さんの奢りですので。」 あらかじめ準備していたらしい、バーのマスターはすぐに料理と酒を持ってきた。 カウンターの端にも料理が置かれたので、二岡は安心して料理を食べることにした。 この時、マスターは臼井のことに気づいておらず、ただ余った食べ物を供えているだけだということに、彼が気付くことはなかった。 「…それでは。」 「乾杯。」 2人は出された酒に口を付けた。 この独特の匂いと癖…ストレートのジンだ。それも燗をつけている。 二岡は今までジンをこのような形で飲んだことはなかった。 それに付けられているのはいわゆるフィッシュ&チップス。 やはりイルダさんはイギリスの人なんだな、二岡は改めて実感した。 「これは…ゴードンですか?」 「ご明答。その通りです。」 「熱いジンなんて、初めてです。」 「そうですか? 俺はこの、熱くてツンとくるのが好みなのですが。」 しばらくの間、2人は黙々と酒と食事を進めた。 それにしても、イルダさんはなぜ今夜の食事に誘ったのだろうか。 まさか自分に…? いやいや、イルダさんに限ってそれはないだろう。 二岡は今まで女性と親しい関係になったことがなかったが、この押しの弱い性格もその原因の1つだった。 「「食事中ですが、少しいいですか?」」 「あ、いや、そちらからどうぞ。」 「いえ、俺の話は長くなるので、二岡さんから話してください。」 「それでは失礼します。 …なぜ今日俺たちを招待したのですか? 招待に値する人は他にもいるでしょうに。」 入田は大きく息を吐くと、がっくりと顔を落とした。 そしてすぐに顔をあげ、二岡の顔をじっと見つめた。 イルダさんの様子が何か変わった、二岡は微妙な変化に気がついた。 いつも様々なものを見聞きし、常に的確な反応を返してきた二岡だからこそ捉えられた微妙な変化だった。 「今日貴方を招待したのは、貴方に話しておかなければならないことがあるからです。」 「な、何ですか!?」 もったいぶった言い方に二岡はびびった。彼はびびり君だった。 まさかあのDVDの存在を気付かれたとか…? いやいや、イルダさんがあれを知っているはずがない。 「…『紅舞』リシェリアリエス、『夢織』フェルミラータ、『月編』シチリ、『霧奏』エミルネーゼ。 これらの名前はもうすでにご存知ですよね?」 「最源四姫のことですね。 彼女たちに血を吸われ続けて、最近いつも貧血気味なんです。」 「一応相手が死なないように加減をしているとは思いますが… それは大変ですね、今度会ったら血液の吸いすぎはしないように言っておきます。 …これに関して貴方に告げなければならないのですが、貴方は彼女たちに選ばれました。」 入田が真面目な顔で言うものだから、二岡はちょっとびびって、もし自分が「名血百選」などに選ばれていたらどうしよう、と本気で考えた。 繰り返し血を吸うために血を吸い尽くされてしまうことはないだろうが、吸血鬼たちが行列をなして押しかけ、常に貧血状態になるだろうことは予想できた。 「選ばれたって、やはり俺の血が美味しいからですか?」 「彼女たちの言葉によればそうです。ですから今回、私は貴方を『庇護』することにしたのです。」 「『庇護』?」 「そうです。貴方に真の危険が迫った時に、運命を変えることで1度だけ危険を軽減させる、高度な魔法です。」 「車に轢かれるはずだったのが回避できるとか?」 「普通はそれほどのことはできません。頚椎の骨折を大腿骨の骨折に変える程度です。」 「でも、どうしてそんなことを?」 「私が最源四姫に選ばれた「代行者」で、貴方が同じく最源四姫に選ばれた「パートナー」だからです。 自らの仕える「神格」やその「パートナー」を守るのが、「代行者」の務めですから。」 話が途切れた。 二岡は塩鱈の、入田は馬鈴薯のフライを口の中に入れる。 二岡は、入田が言う「神格」が何なのか解らなかったが、直感的に宗教的な何かであると感じた。 気になったので、二岡は口の中のフライがなくなったら入田に詳しく話を訊くことにした。 「…入田さんの仰る「神格」や「パートナー」、「代行者」とはどのようなものなのですか?」 「…長くなりますが、いいですか?」 「それほど複雑な概念なのですか?」 「俺の、というよりもハンター49号の宗教観と密接に関わる概念ですので。」 「…話が長引くから、このような場所に招待されたのですよね?」 「二岡さん、貴方は聡明だ。」 良きに付け悪きにつけ全てが平凡な二岡は、それまで「聡明」などという言葉を受けたことがなかった。 これは的確な反応を返したことに対する入田の讃辞だったのだが、浮かれてしまった二岡はそのことに気付かなかった。 「二岡さんは、この世界に絶大な力を持った存在がいることをご存知ですか?」 「この前の紅舞の男達は凄かったなあ…。」 「いえ、もっと絶大な力を持った存在です。」 「…春さんとか?」 「彼女もそうですね。ただ、なぜ真城華代の名前が出てこないのですか?」 二岡は、ハンターならば必ず思いつかなければならない名前を告げられて、少しバツが悪くなった。 それをごまかすため、テーブルからジンのグラスを取って中身を一気に流し込む。 彼の胃の中が一気に熱くなり、何とも言えない不快感に襲われた。 「一気に飲むと、体に悪いですよ。 ところで、なぜ真城華代を永続的に無力化できないか、考えたことはありますか?」 確かに、未だかつて永続的に真城華代を無力化できたハンターはいない。 今自分がハンターという仕事をやっているのがその何よりの証拠だ。 春さんがいても無力化できていないということは、真城華代はその上を行く存在なのだろうか。 「私の認識、いえ、自分で判断しているわけではないから信仰ですね、では、それは真城華代が「神格」だからです。」 「そこから、「神格」とは何か、という話に入るわけですね。」 これから語られるのは二岡が今まで考えたこともないような思想であることは間違いないだろう。 二岡は馬鈴薯のフライを摘むと口の中に放り込んだ。 「「神格」について説明するには、まずこの世界について説明しなければなりません。 この世界は複数の「創造者」達が作り出した巨大な物語のようなものです。」 「…創造主?」 「違います! 創造主と「創造者」を一緒にしないでください!」 二岡には違いが理解できなかったが、イルダさんにとっては非常に大きな違いがあるらしい。 相手を怒らせたくはなかったので、二岡は言葉に注意することにした。 「…とにかく、世界を作り出す力を持った「創造者」達のそれぞれが、その巨大な物語の1章1章を紡ぎ、物語を外側から守り動かしているのです。」 「その「創造者」はなぜ自分1人で世界を作らないのかな?」 「これは推測にすぎませんが、この世界が非常にうまくできているからではないかと思います。 ファンタジー小説やTRPGの背景世界を作ったことがあるならば解るでしょうが、オリジナルの世界を魅力的なものにするのは非常に難しいことですよ。 それに、人気のある世界と言うのはそれだけ注目されるわけですから、「創造者」の想像力も掻き立てられるというものです。」 「複数の「創造者」がいたら、意見の違いのせいで世界はめちゃくちゃになってしまいそうだけど。」 「ええ、ですから、「創造者」たちはどこかで意見を擦り合わせたり遠慮したりしているのでしょう。 …ただ、実際にどうなっているのかはこの世界に囚われている存在には知りようがないことですが。」 入田は遠い目でジンを空けると、塩鱈のフライを口へと運んだ。 「「神格」は逆に、この世界を内側から守り動かしていく存在です。」 「「創造者」がこの世界の外にいるわけですから、「神格」はこの世界のどこかにいるわけですね。」 「その通りです。基本的に「神格」はこの世界で圧倒的な力を持ちます。」 ここで二岡ははたと気がついた。さっきの話と論理がつながる。 「…もしかして、春さんは「神格」なのですか?」 「ええ、私はそう捉えています。 誰が「神格」なのか知りたい場合は、モニカさんに訊けば教えてくれますよ。 彼女には「神格」が光り輝いて見えるそうですから。」 その話は二岡も聞いたことがあった。 真城華代と天使を間違えるなんて…と彼は思っていたが、イルダさんはそのことを真面目に捉えているらしい。 「つまり、春さんは「神格」だからあんなに強いのですね。」 「いえ、逆です。圧倒的に強い存在が「神格」にされるのです。」 「…される?」 「そうです。「創造者」の1柱が作り上げた、世界を崩壊させないための自衛措置、それが「神格」です。 …考えても見てください。真城華代や春さんでも敵わないような相手が好き勝手に暴れたらどうなるか。」 「…確実に世界がめちゃめちゃになりますね。」 「そう。その「創造者」は強大な力によりこの世界がめちゃくちゃにされることを望まなかった。 しかし、他の「創造者」により送り込まれた、強力な存在を否定したくもなかった。 その「創造者」も強力な存在を好んだからであり、他の「創造者」が送り込んだ存在を愛していたから。 だからその「創造者」は、それまでに送り込まれた強力な存在を否定することなく、強力な存在による世界の破壊を防ぐ方法を考えた。」 「それが「神格」と言うわけですか?」 「はい。「神格」には「自分が本来いる場所」にいる限り、この世界に対して「創造者」と同等の能力を使えるようにした。 その代わり、「神格」は他の「神格」に対して危害を与えられず、強力な「神格」自身は「自分が本来いる場所」から離れることができなくなった。 必要があれば作り出した自分の分身を「代理」として派遣することもできるので、基本的に不便なことはない。」 「なぜそのような制限が?」 「非常に強力な存在であれば、それだけでこの世界に大きな影響を及ぼしてしまうからです。 また争いが起これば優劣が決まります。すると、劣っている方は「圧倒的に強い」存在ではなくなってしまいます。 それに、「優れている方よりもさらに優れている」存在が次々と出てきたらどうなりますか?」 マスターが別の皿を持ってきた。サンドイッチと赤ワインだろうか。 それで気がついたが、いつの間にか料理の皿も酒のグラスも空になっていた。 2人はマスターから注がれたワインのグラスをゆっくりと回すとそれぞれに口を付けた。 「…カリフォルニアワインのターニングリーフですね。」 「その通りです。店では2000円程度で提供しようと思っています。」 「先ほどもそうですが、内装の割に値段を抑えようとしていますよね。」 「…お気づきですか。でもここはハンター組織の中ですから、この程度にしておかないと。 ただでさえエージェントの低年齢化が進んでいますからね。」 「…いえいえ、決して悪くはないですよ。これだって渋好みの人にはたまらないだろうし、大抵の料理に合わせられるし。」 「生牡蠣との相性は最悪ですけどね。 …二岡さん、貴方がいてよかった。貴方なら常に適切な反応を返してくれますから。」 その言葉に、二岡はとても良い気分となった。 ただ、イルダさんにはその「本来の姿」でいてもらいたかった。 二岡は茹卵の輪切りとローストビーフ、そして生野菜が挟まれたサンドイッチを取り上げた。 「…ところで、さっきの話からして入田さんは「神格」に仕えている存在なんだよね?」 「はい、私は最源四姫に仕える「代行者」です。」 「それはつまり、ネーゼちゃんたちが「神格」だってこと?」 「そうですが。」 「ネーゼちゃんが強いとはどうしても思えないんだけどなあ…」 「いい質問ですね。 彼女が強くないのは、彼女の能力のほとんどが何らかの理由、手段により封じられているからです。 この点から考えると、エミルネーゼさんは元「神格」だ、と考えた方がいいかもしれませんね。」 「なぜそんな事を?」 「解りませんが、彼女にとっては能力が封じられている方が良い点が1つあります。 強力な存在のままでは、自分自身が旅行をすることができなくなりますからね。」 二岡は唸った。筋は通っている。 少なくとも彼には、この筋に対する反論は思いつかなかった。 「…「神格」については解りました。と言うよりも、これ以上説明されても理解が深まりそうにありません。」 「そのまま受け入れてもらうしかないのですけどね。これは形而上学的な世界観の話ですから。」 入田はそう言うと、鶏肉が挟んである方のサンドイッチを口にした。 「それよりも気になることがあります。 俺が選ばれた「パートナー」だと言うのは、どういうことですか?」 「貴方は最源四姫にとって特別な存在になっている、ということですよ。 理由はともかく、貴方は最源四姫の3柱に血を飲まれ、2柱に性転換され、2柱から価値あるものをもらった。」 「何でそんな事を知ってるの?」 「この前「代行者」、これは魔女(ウィッカ)の中の最高位なのですが、に任じられた時に聞きました。」 「で、それでなぜ命をかけてまで俺を守ろうとするの?」 「それが務めだからです。 …二岡さん、そもそも貴方は魔女(ウィッカ)を何だと思っていますか?」 「何だって…。魔法を使う女性?」 二岡は逆に問われて、頭を捻りながらそう答えた。 「他の説明は?」 「他って…他にあるの?」 すると入田はやれやれと肩をすくめた。 「仕方がないですね。一から教えましょう。」 「それは興味深いな…。」 それまでカウンターの端で大人しくしていた臼井黒影が関心を示し、聞く体制に入った。もちろん二岡も耳を傾ける。 「そもそも魔女(ウィッカ)というのは、日の当たる世界の住人と常夜の世界の住人の橋渡し役です。 魔女(ウィッカ)は男性形であり、魔女(ウィッチェ)という女性形が別にあることからも解るように、性別は関係ありません。」 「男性の魔女もいるんだ。」 「ええ。ちなみに、イルダ・リンカーンが自分のことを魔女(ウィッカ)と言っているのは、実は誤りです。本当は魔女(ウィッチェ)でなければなりません。」 入田はバツが悪そうに頭を掻いた。 二岡は、これまで入田がこのような行動をするのを見たことがなかった。 「…まあ、ここでは解りやすいように魔女(ウィッカ)で統一します。 魔女(ウィッカ)の役割は、日の当たる世界の住人と常夜の世界の住人の間に起こる諍いを回避させることにあります。 一般的に日の当たる世界の住人は闇を恐れ、常夜の世界の住人は日の光を恐れますから、そのままでは無益な争いが繰り返されてしまいます。」 二岡は黙って相槌を打った。 以前あった吸血鬼の事件、その際にボスから聞いた話に出てきた吸血鬼の社会とやらも、そのような役割を担う存在があるからこそ人間と共存できるのだろう。 しかし、二岡にはどうにも気になることがあった。 「…すると魔女は吸血鬼と人間が争わないようにしているんだよね?」 「常夜の世界の住人は吸血鬼だけではありませんが、それも役割の1つです。」 「じゃあ何で吸血鬼と人間の争いが無くならないわけ?」 「それには幾つかの理由があります。 まず、狂って暴走してしまう吸血鬼。これはどうしようもありませんが、その数は非常にわずかです。」 二岡はこの前のエフルテトスのことを思い出していた。 人間ならば責任能力がないと罪に問われることはないが、相手が吸血鬼では話が違う。 人権は、人間に与えられる権利なのだ。 「次に、魔女(ウィッカ)の仲裁を無視して争いをしかけようとする存在がいること。 吸血鬼の中で創造主とも呼ばれる存在とその勢力、人間の側で吸血鬼を撲滅しようとする勢力は、共に頭の痛い存在です。」 二岡はこの前リシェちゃんから聞いた話を思い出した。 さっきイルダさんが創造主と「創造者」を区別するように求めたのは、そのせいなのだろう。 「…そういう相手に対してはどうするのですか?」 「相手がどのような存在に、どんな理由で攻撃をするのかを訊き出して、その中にある誤解を解いていきます。 ほとんどの場合、争いの原因は相手を理解していないところにありますからね。」 「それでもダメな場合は?」 「…これ以上諍いを起こさせないように、その存在を滅ぼします。相手が人間の側でも闇の眷属の側でも変わりません。」 入田はやおら立ち上がると、振り向きざまに何かを投げるような動作をした。 二岡がその先に目をやると、ダーツの的、20点の3倍が入るごく細い線の上に、それまでなかったダーツが3本刺さっていた。 「…辛いことですが、魔女(ウィッカ)には冷酷な決断をしなければならない時があります。 そしてそのために、魔女(ウィッカ)には、自らの血の中にある命を力に変える技術が伝えられています。」 「それが、魔法ですか?」 「ええ、魔法には様々なものが存在しますが、魔女(ウィッカ)の魔法はそうです。 闇の眷属が使う力と似ていると捉えられることもあるので、魔女(ウィッカ)そのものも攻撃の対象にされることがあります。」 二岡は入田の頬に流れ落ちるものを見た。 イルダさんにも色々な因縁があったらしい。二岡は声をかけることができなかった。 「…そして残念なことですが、吸血鬼である最源四姫に選ばれた以上、貴方にも危害が加わる可能性がないとは言えません。」 「だから俺を守ろうとしているのですね。」 「はい。 これで言わなければいけないことは全て言いましたが…食べながらで結構です、少し話を聞いてください。」 入田は自分が食べかけていたサンドイッチの切れ端を食べ、ワインを口の中に注いだ。 二岡もそれに倣い、サンドイッチの最後の1切れに手を伸ばし、ワインの最後の一口を飲み干した。 「…貴方は、俺がイルダ・リンカーンの変身した姿だと捉えていませんか?」 「そうではないのですか?」 「確かに一面ではその通りですが、もう一面では違います。 見方を変えれば、俺が本来の姿であり、イルダ・リンカーンは「外付け」された存在なのです。 春野さんを考えると解りやすいでしょう。彼女には「なずなSOS」に登場する、なずなというキャラクターが「外付け」されています。 彼女がどうなっているのかは知りませんが、俺の場合、性格や技能、記憶などは完全に融合しているものの、精神は別なのです。」 「…精神が融合してしまっているのに、なぜそう言えるのですか?」 「この前気づいてしまったのです。男性として女性である飯田さんに、友情ではない好意を持っている自分に。 まだどんな感情かも解らないような微かな好意でしかありませんが、これは女性であるイルダ・リンカーンが決して持ち得ない種類の感情です。」 「なぜ俺にそんなことを…」 「男性としての俺の存在を、誰かに覚えていて欲しいからです。 俺はできればこの感情を守って、イルダ・リンカーンとは違う自分を保っていたいのですが…そのまま呑み込まれて消滅してしまうかもしれません。 今は男性としての意識が残っていますが、これが明日残っているという保証はどこにもありませんからね。」 二岡には返す言葉がなかった。 いつもはデメリットなど微塵も感じさせないのだが、入田もまた他の半田姉妹と同様、真城華代の被害者なのだ。 「俺がイルダ・リンカーンであるとき、私が持つ飯田さんへの好意は存在しません。 俺が男性としての意識を残しているかは、今夜のやり取りをよく覚えていれば確認できるはずです。 マスター、そろそろ二岡さんと彼女のためにギムレットを2つ。」 二岡はここで初めて、ここまで入田が人称代名詞を意図的に使い分けてきたことに気がついた。 …他にも何か「手がかり」を残していたのかもしれないが、彼はそれには気付かなかった。 静寂の中、シェイカーの音だけが響く。 「では、そろそろ時間ですので、代わりますね…」 「…イルダさん?」 「…はい。何ですか?」 「記憶は…残っているのですよね?」 「はい…正直に言いまして、全く意識していませんでした。」 マスターがテーブルの上を片づけ、ギムレットのグラスを置いた。 イルダと二岡はそれぞれに口を付ける。 「…ジンが、お好きなのですね。」 「ええ。あまり上品ではないのですが、私の好みなので。 …ギムレットはいいですよね。シェイクの腕がはっきりと出てしまいますが。」 「そのまま氷のグラスに注いだら、ジンライムになってしまいますからね。」 「…考えてみたらそうですね。 このすっきりとした飲みやすさからは考えにくいことですが。」 ストレートのジンがツンとくるのを評価していた入田さんに対し、イルダさんはギムレットが飲みやすいことを評価している。 確かにイルダさんと入田さんは全く違う人なんだ、二岡ははっきりと実感した。 「…では、マスターさん、ごちそうさまでした。」 「ありがとうございました。」 『庇護』の魔法そのものは、とてもあっさりとかけられた。 少しの間目を合わせて何かが囁かれただけだったので、直後にイルダさんが疲れた顔を見せなければ、二岡は何が起こったのかさえ気付かなかっただろう。 店を出た3人はそのまま別れ、それぞれの部屋に戻っていく。 「…おい。」 自分の部屋に入る前、二岡は呼び止められた。 低く抑えられた、殺意のこもった声に、二岡の酔いは一気に醒めた。 「…何だ、西か。」 「お前、イルダさんと何をしていた?」 「何って、少しの間見つめ合って『庇護』の魔法をかけてもらっただけだけど…どうしてそんなことを訊くの?」 悪い予感に震えながら、二岡は次の言葉を促す。 「…ほう、俺を差し置いて、イルダさんと睦み合いですか。それは結構なことで。」 「いや、俺はただ魔法をかけてもらっただけで…」 「ただ魔法をかけてもらうだけで、こんな時間に、しかも楽しそうに酔った状態でバーから出て来るか?」 「…」 二岡はもう、言葉が出なかった。冷や汗がどんどんわき出てくる。 西は自分の命を投げ出してもいいと思うくらいイルダさんに夢中なのだ。これ以上説明しても、話を聞いてくれそうにはない。 こうして、深夜のハンター本部に二岡の悲鳴が響いたのだった。 「失礼します。ボス。今さっき、96号経由で23号の有休届が届きました。」 「またか。やっぱり理由は出血多量か?」 「いえ、今回は24号により半殺しにされたそうです。」 「…。何があったか知らないが、あいつも最近は色々大変みたいだな。 それで、その時のギャグ補正は判るか?」 「…直前までは「シリアス」だったようですが、このときは「お気楽」になっていたようです。」 「そうか。じゃあ23号を引っ張ってこい。 ギャグ補正が「お気楽」ならば実際のダメージはほとんどないはずだ。事務作業くらいはさせられる。」 「…そこまでして仕事をさせるのですか?」 |
|||
|