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ハンターシリーズ170
『初恋』

作・ELIZA

 


注:この作品には、重い雰囲気を緩和するために何カ所か真城華代の茶々が入るようになっています。該当の文字列をクリックしてください。JavaScriptが使用できない環境では茶々の出し入れができませんが、その場合茶々は青字で出力されたままになります。茶々が必要ない場合は、青字部分を読み飛ばしてください。


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 どうしても、もう、とても、生きておられないような心苦しさ。これが、あの、恋、とかいう感情なのであろうか。胸に苦しい波が打ち寄せ、それはちょうど、夕立が済んだ後の空を、慌ただしく白雲が次々と走って走りすぎて行くように、私の心臓を締め付けたり、緩めたり。私の脈は結滞して、呼吸が希薄になり、目の先がもやもやと暗くなって、全身の力が、手の指の先からふっと抜けてしまう心地がして、言葉を続けていくことができなくなった。
 いちさんは、秋もたけなわの日差しの中、お部屋の隅の机によりかかって、ご本を読んでいらしたのだが、言葉が止まったのに対して、
「ん?」
と、不審そうに返事をなさった。
 私は、まごつき、それから、ことさらに大声で、
「とうとうミセス・ジョン・レインが咲きました。いちさん、ご存知でした? 私は、今気が付いた。とうとう咲いたわ」
 宿舎の猫の額ほどの庭に植わったミセス・ジョン・レイン。それは、イルダお嬢ちゃんが、昔、ヴィクトリア朝だかエドワード朝だか、ちょっと忘れたけれど、とにかく遠い昔から切り花でお持ちになった薔薇で、そのすぐ後に、春先輩が、この宿舎の庭に挿し木して下さった苗である。今朝それが、やっと一つ咲いたのを、私はちゃんと知っていたのだけれども、照れ隠しに、たった今気付いたみたいに大げさに騒いで見せたのである。花は、淡いピンクで、凛とした傲りと強さがあった。
「知っていたよ」
といちさんは静かに仰って、
「イセリア、君には、そんな事が、とても重大なんだな」
「そうかもしれないわ。可哀そう?」
「いや、君には、そういうところがあるって言っただけさ。台所に俺が10年前に失くしたルノアール展のマッチ箱をさりげなく置いたり、かつての俺の人形が持っていたハンカチを探し出してみたり、そういうことが好きなんだな。それに、庭先の薔薇のことだって、君の言うことを聞いていると、生きている人のことを言っているみたいだ」
「子どもが無いからよ」
自分でも全く思いがけなかった言葉が、口から出た。言ってしまって、はっとして、間の悪い思いで膝のスカートをいじっていたら、
――六百十七歳だからなぁ。
そう仰る男の人の声が、電話で聞くようなくすぐったいバスで、はっきり聞こえたような気がして、私は恥ずかしさで、頬が焼けるみたいに熱くなった。
 いちさんは、何も仰らず、また、ご本をお読みになる。いちさんは、この前から殿方にお戻りになっていらして、そのせいか、この頃めっきり無口になった。殿方には、私の持ってきた薬をお飲みになって、お戻りになったのである。いちさんは、一月ほど前に、若い乙女の姿から立派な壮年男性になって還ってきたのだ。


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 何の前触れもなく、ある初秋の夕暮れ、戸口から顔を出して、
「ん? ……誰だ? セールスならお断りだが」
それが私と初めて顔を合わせたときの、いちごさんの挨拶でした。
 その二、三日前からいちごさんは、心を病んで引きこもっていらした。心の中が、外見はなんの変りもないのに、動くのがつらくてならぬと仰って、お食事も、お焦げのスープだけで、同僚の人が「100号か49号に診てもらったらどうだ?」と言っても、首を振って、
「根本的には何の解決策にもならないさ」
と苦笑いしながら、仰る。その人は差し入れをしてあげたけれども、いちごさんの心は少しも晴れないようで、私は妙にいらいらしていた。
 そこへ、私がやってきたのだ。
 私はいちごさんに薬の小瓶を渡して、とにかくこれを飲んでください、と言って頭を下げ、すぐに頭を上げて、小さい部屋の中に戻っていかれたいちごさんを探し、その後をついて歩いて、
「どう? いちごさんは、変わった?」
「こ、これだ……これだよ…………遂に……遂に念願がかなったんだ……。ありがとう、イセリア! 君の言うことは何でも聞くよ!」
「本当?」
「男に二言はない! ……くーっ、この言葉が言えるなんて、何て幸せなんだ!」
「私と結婚してください、と言っても?」
「……え? 今、何て言った?」
「私、もうそんなに若くないし、背も高すぎるでしょう? 貴方はそんな私をずっと好意的に見てくれていた」
「……イセリア、そりゃ、確かに、俺は、筋肉質な体の君をめざ……」
「まあいやらしい。私の体のことを思って、何をしていらしたの?」
「……た、ただの筋トレだ! 筋トレ!」
「『ただの筋トレ』ねぇ……まあ、そういうことにしておきましょ」
「……イセリア、男に二言はないが、1つ条件を出したい」
「あら、なあに?」
「俺は以前にも男に戻ったことがあるが、その度に女に逆戻りだ。だから1年待ってくれ。1年男として君の恋人でいられたら、君と結婚する。それまでに責任をもって君を愛し、君を幸せにする準備をするから。」
「約束よ? 私は本気だから。」
「……イセリア、酒を用意してくれないか? 今夜は飲む! 久々に大人に戻れたからな!」

 私はこの近辺で知っている飲食店の一軒へ行って、おかみさんの春先輩に、いちごさんが殿方に戻られたので、お酒を少し分けてくださいと頼んでみたけれども、春先輩は、お酒はあいにく、今切らしていますと言うので、帰っていちさんにそう伝えたら、いちさんは、サンダルをつっかけて外に飛び出し、それっきり、いくら待っても部屋へ帰ってこなかった。私はいちごさんの好物だと春先輩に教えてもらったライスカレーと、それから、お魚のお料理などこしらえて、切れている部屋の蛍光灯も新しいのと取り換え、随分待って、そのうちに、イルダお嬢ちゃんが、戸口からひょいと顔を出し、
「もし、もし。大丈夫でしょうか、いちごさんが相当の量のお酒を召し上がっているのですけど……え!? イセリア小母さま!?」
と、雨の後の空のような真っ青な眼を、さらに強く見開いて、一大事のように、抑えた声で言うのである。
「相当の量って。あの、1ガロン?」
「いいえ、それほどではありませんけれど」
「飲んでも、体は大丈夫なのでしょう?」
「ええ、でも、……」
「飲ませてやって下さい」
イルダお嬢ちゃんは、唾を飲み込むようにしてうなずいて帰って行った。

 私は春先輩のところに行って、
「イルダお嬢ちゃんのところのバーで、飲んでいるんですって」
と申し上げたら、春先輩は、少しお口を曲げて御笑いになって、
「そう。殿方に戻られたのね、それは嬉しいことでしょう。お伊勢ちゃん、貴女は、ご飯を済ませなさい。それから今夜は、二人で、いちさんの部屋におやすみ。私のお布団を、貸し出しますから」
私は、泣きたいような気分になった。

 夜更けて、いちさんは、荒い足音をさせて帰ってきた。私たちは、枕を並べて、一つの部屋に入って寝た。
「女性だった頃のお話を、私に聞かせてくれないかしら?」
と私が寝ながら言うと、
「何も無い。何も無い。忘れてしまった。男に戻って酒場に行って、酒のグラスから、ランプの明かりが、素晴らしく綺麗に見えた。それだけだ。電気を消してくれ。眠られないから」
私は蛍光灯を消した。初秋の月光が洪水のように部屋の中に満ち溢れた。


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 木枯らしが強く吹いている日だった。いちさんの宿舎の前に着いた頃には、もう辺りが薄暗く、私はふと右手に見える二つの部屋の内の一つの部屋の表札が、夜目にも白くぼんやり浮かんで、それに半田いちごと書かれているような気がして、その部屋の玄関に走り寄って、なおよく表札を見ると、確かに半田いちごとしたためられていたが、家の中は暗かった。
 どうしようか、とまた瞬時立ちすくみ、それから、身を投げる気持ちで、玄関のドアに倒れかかるようにひたと寄り添い、
「ごめん下さいまし」
と言い、左手でドアをノックしながら、
「半田さん、半田いちごさん」
と小声で囁いてみた。
 返事は、あった。しかし、それは男の人の声であった。
 玄関の戸が内から開いて、細面のやつれた匂いのする、私の外見より十ばかり年下のような男の人が、玄関の暗闇の中でちらと笑い、
「どちらさまですか」
と尋ねるその言葉の調子には、何の悪意も警戒もなかった。
「いいえ、あのぅ」
けれども私は、自分の名を言いそびれてしまった。この人にだけは何故か、私の恋も、奇妙に後ろめたく思われた。おどおどと、ほとんど卑屈に、
「半田いちごさんは? いらっしゃいません?」
「はぁ」
と答えて、気の毒そうに私の顔を見て、
「でも、もう、いちごは、……」
「遠くへ?」
「はい」
と、うわべだけは可笑しそうに片手をお口に当てられて、
「もうこの世にいないんだ。彼女の表札だけもらって掛けているんだけど、いちごはここにはいないんだ。ごめんなさい」
 私は飛び立つ思いで、
「あ、そうですか」
「まあ、立ち話もなんだから、よければ入って」
勧められて私は、部屋の内に入り、テーブルに着かせてもらい、部屋の主人から、五代さんと仰るそうですが、自分もいちごと同じハンターであるという自己紹介をしていただいて、その間にも五代さんは、蝋燭を灯してテーブルに持ってきてくださったりしながら、
「生憎、蛍光灯が二つとも切れてしまったんだ。最近の蛍光灯は馬鹿高い上に近くに売っている店がなくてね。いちごと一緒なら買いに行く気にもなるんだけど、いちごはもう二月以上も帰ってこないから、ぼくは、これで三晩、明かり無しの早寝なんだ」
などと、しんから呑気そうに笑って仰る。五代さんの後ろには、十八、九歳の眼の大きな、滅多に男になびかないような感じの美しい女性の写真が飾ってある。
 敵。私はそうは思わないけれども、しかし、この男の人は、いつかは私を敵と思って憎む事があるに違いないのだ。それを考えたら、私の恋も、一時に冷め果てたような気持ちになって、
「ありがとうございました」
と、馬鹿丁寧なお辞儀をして、外へ出て、木枯らしに吹かれ、戦闘、開始。恋する、好き、焦がれる、本当に恋する、本当に好き、本当に焦がれる。恋しいのだから仕様が無い、好きなのだから仕様が無い、焦がれているのだから仕様が無い。五代さんは確かに素晴らしくいいお方、いちごさんもお綺麗だ。けれども私は、“真城”様の審判の台に立たされたって、少しも自分をやましいとは思わぬ。全て生き物は、恋のために生れて来たのだ。“真城”様も罰し給う筈が無い、私は微塵も悪くない。本当に好きなのだから大威張り、いちさんに一生添い遂げるまで、何をしてでも、必ず。


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 そうしてある朝、恐ろしいものを私は見た。いちさんのお手が、変わっているのだ。その時、私は、いちさんの手を見て、びっくりした。右の手が痩せ細り、女の人のようになっていたのだ。
「いちさん! 手、何ともないの?」
 お顔さえ少し蒼く、痩せているように見えた。
「何でもない。これくらい、何でもない」
「何時から、変わったの?」
いちさんは、眩しそうなお顔をなさって、黙っていらした。私は、声を挙げて泣きたくなった。こんな手は、いちさんの手じゃない。他所の娘さんの手だ。私のいちさんのお手は、もっと逞しくて大きいお手だ。私のよく知っている手。優しい手。愛しい手。あの手は、永遠に、消えてしまったのだろうか。左の手は、まだ完全に変わりきってはいなかったけれども、とにかく傷ましく、見ている事が出来なくて、私は眼を逸らし、テーブルの花瓶を睨んでいた。

 涙が出そうで、たまらなくなって、つと立って食堂へ行ったら、五代さんが一人で、パフェを食べていた。夜はきまってイルダお嬢ちゃんのところのバーへ行ってお酒を飲み、朝は不機嫌な顔で、ご飯は食べずにパフェを一杯か二杯食べるだけで、それからまたお部屋へ戻って、寝たり起きたりなのである。
「いちさんの手が変わって」
と春先輩に話しかけ、俯いた。言葉を続ける事が出来ず、私は、俯いたまま、肩で泣いた。
 春先輩は黙っていらした。
 私は顔を挙げて、
「もう、だめなの。春先輩、気が付かなかった? あんなに変わったら、もう、駄目なの」
と、テーブルの端を掴んで言った。
 脇で話を聞いていたのか、五代さんが、明るい顔になって、
「近いぞ、そりゃ。よしっ、いちごが帰ってくるんだ」
「私、もう一度、治したいの。どうかして、治したいの」
と右手で左手を絞りながら言ったら、突然、五代さんが、けらけらと笑い出して、
「そんなことになったら、いちごが、帰らないじゃないか。いちごが、帰ってこないじゃないか」
と言いながら、滅茶苦茶に拳で眼を擦った。

 翌日、いちさんのお体は、昨日よりも、また一層大きく変わっていた。お食事は、何も召し上らなかった。お焦げのスープも、今は全然飲む気がしないと仰った。
「いちさん、また、新しい薬を探してきますから」
と笑いながら言うつもりであったが、言っているうちに、辛くなって、わっと声を挙げて泣いてしまった。
「こりゃもう持たないな。婚約は解消せざるをえまい」
と静かに仰ったが、ご自分のお体よりも、私の身を心配していらっしゃる事がよく解って、なおの事悲しく、立って、走って、お風呂場の三畳に行って、思いの丈泣いた。

 お昼少し過ぎ、私がいちさんのお部屋の前に行くと、五代さんが部屋から出てきたところだった。五代さんの顔を見ると、それは笑いたいのをこらえている顔だった。
 私たちは、そっといちさんのお部屋から離れて、食堂へ行った。
「変化が、馬鹿に急激にやって来たらしいんだ。この調子なら、明日にも、いちごが帰ってくる!」
と言っているうちに五代さんの眼から涙があふれて出た。
「いちさんが大変だというのに、方々へ、連絡をしなくてもいいかしら」
私は却って、しんと落ちついて言った。
「それは、ボスにも相談したが、ボスは、今はそんな人集めの出来る状況では無いと言っていた。集まったとしても、こんな狭い部屋で何かできるわけでもなし、たとえできる奴がいたとしてもそんな奴を呼ぶことはできない。つまり、うちの組織は貧乏で、いちごをどうこうしようって言う予算は無いって訳なんだ。ボスは、すぐ後で来る筈だが、でも、あいつは、昔からケチで、頼みにも何もなりゃしない。昨夜だってもう、いちごのことはそっちのけで、ぼくにさんざんのお説教だ。ケチな奴からお説教されて、眼が覚めたなんて者は、古今東西一人もあった例が無いんだ。嫌になるよ」
「でも、もうここの一般職員を首になった私はともかく、あなたは、局長さんの悪口なんて言ったら、……」
「いちごに何か事があるくらいなら、いっそ乞食になった方がいい。イセリアの姉さんこそ、これから、ボスにぼくから頼みこむからさ。ボスならまたきっと雇ってくれるさ」
「私には、……」
涙が出た。
「私には、思い人がいるの」
「恋人? 婚約しているの?」
「いいえ」
「片思いか?」
「片思いでもないの。でも、もう結ばれないの」
「へえ?」
五代さんは、変な顔をして私を見た。

 五代さんをお送りして、いちさんのお部屋へ戻ると、いちさんが、私にだけ笑う親しげな笑いかたをなさって、
「辛い思いをさせて、済まない」
と、また、囁くような小さいお声で仰った。そのお顔は、活き活きとして、むしろ輝いているように見えた。一時でも殿方として恋をすることができたことが嬉しかったのだろう、と私は思った。
「いいえ」
私も少し浮き浮きした気分になって、にっこり笑った。
 そうして、これが、いちさんとの最後のお話であった。

 それから、三時間ばかりして、いちさんは亡くなったのだ。晩秋の静かな黄昏、私に手を取られて、いちさんと私と、たった二人きりで、私が最初に恋した美しいいちさんが。
 お顔は、殆んど、変らなかった。お手の時は、さっと、形と大きさが変ったけれども、いちさんのお顔は、ちっとも変らずに、体だけが変わった。その体が変わったのも、何時と、はっきり判らぬ位であった。お顔の変化は、私が部屋に入ったときには終わっていて、頬が蝋のようにすべすべして、薄い唇が幽かに歪んで微笑みを含んでいるようにも見えて、艶めかしかった。私は、ムリーリョの無原罪の御宿りに似ていると思った。


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